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春秋異聞  作者: ペンギンの下僕
双士戟弓
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姜子蘭と維子狼

 店主が運んできた器からは湯気が沸き立っていた。

 黒く染められた(あつもの)には鳥肉と細い麺が入れられており、表面にはうっすらと油が浮いている。


「この店一番の名物、鳥の(しょう)で味付けした雁肉入りの煮餅にございます」


 立ち込める湯気には野趣が満ちており、鼻腔をくすぐる甘い香りが食欲を唆る。意図せず、姜子蘭の腹がくうと唸った。


「た、食べてよいでしょうか?」

「もちろんにございます。冷めても美味ですが、熱いうちに食べられるほうがなおよろしいでしょう」


 そう言われると姜子蘭はもう辛抱たまらず、器に飛びついた。そして無心で煮餅を口に運ぶ。

 ちなみに煮餅は、餅という字が入っているが麺だと思ってもらってよい。この頃の大陸では小麦を練って作られたものはすべて餅と呼んだのである。


「美味でございましょう。特に、今の王子にとっては」

「……それは、どういう意味ですか?」


 姜子蘭は箸を止めて聞いた。


「あれだけの逃避行を重ねてこられたのであれば、体が塩気を欲するに違いありません。我が邸でお出しした料理は貴人を饗すためのものであり、上品ではありますが薄味にございます」

「なるほど。ですが、先ほどの食事もとても美味しゅうございました」

「お気遣いありがとうございます。ですがこれは、我が家の料理人の不手際ではなく、そこに思い至らなかった私の不明ですので、どうかお気になさいませぬように」


 そう謝られると姜子蘭には後ろめたさがある。しかし体が塩気を欲しているのは事実であり、箸を動かす手を止めることは出来なかった。

 気がつけば姜子蘭はあっさりと煮餅を平らげていたのである。同じくらいに煮餅を食べ終えた維子狼は姜子蘭を見た。


「ところで王子はまだ眠気はありませんか?」

「あれほど惰眠を貪りましたので」

「では、もう一品か二品ほど頼みましょう。ここに来て煮餅だけ食べて帰るというのはあまりにもったいないですからな」


 そう言われて、姜子蘭の腹がまた唸った。維子狼は追加の酒とともに鳥皮の肉詰めと川魚の酒蒸しを注文した。


「ところで維子狼どの」

「いかがなさいましたか王子?」

「いえ、維子狼どのは先ほど、表の兵士の方々と話しておられたような話し方のほうが楽なのではありますまいか?」


 そう聞かれて維子狼は、まあそうですなと頷いた。

 維子狼は普段から邸で豪奢な生活をするよりも市井に赴いて兵士たちと交流していることのほうが多い。身分に付随する堅苦しさと息苦しさを避けてのことであった。

 知識として礼節を身につけてはおり、維弓からも王子の迎賓役を任されるだけあってその振る舞いに粗雑さはない。

 しかし維子狼という人の本質は、市井で他人と交流している時のような砕けた口調なのである。


「まあ、それは無論、楽でございますとも。人は誰しも立っているより座っているほうが楽であり、座っているよりも寝転がっているほうが楽ですからな。といって、寝たきりで生きてはいられぬのが人でございますので、性分に合わぬことをせねばならぬ時もございます」

「それは仰るとおりです。ですが、こうして巷間に私を連れてこられたからには、堅苦しい礼儀をされずともよろしいのでは?」


 姜子蘭は維子狼を安心させようと笑いかけた。

 まだ会って日は短いが姜子蘭は維子狼のことは信が置けると思っていたのである。ならばもっと、着飾った言葉でなく素の態度で自分に接して欲しいと思ったのだ。


「そういうわけにもいきますまい。ここが如何なる僻地と言えど、王子が王子でなくなられるわけではなく、私が維少卿の子でなくなるわけでもないのです」

「それはそうかもしれませぬが……」

「だいいち、気遣いをなさっておられるのは王子のほうも同じでございましょう。私は王子に、臣下のようにお思いくださいと申し上げました。しかし王子は私に対して慇懃に接しておられるではありませんか」


 二杯目の酒を流し込みながら維子狼は、面のように張り付けた笑みを姜子蘭に向けた。

 痛いところを突かれて姜子蘭は目を伏せる。


「王子が私のことを、庇護者たる維少卿の子息と思われている限りは、私も父の尊貴なる客分として王子に接するより他にありませんな」

「ならば……どうすればよろしいでしょう?」

「もし王子が私のことを子狼と(あざな)で呼び捨ててくださるのであれば、私も言葉を崩すことにいたします」


 そう言われて姜子蘭は、そうか、と小さく頷いた。そして軽く息を吸ってから、


「では――子狼」


 とあっさりとそう呼んだ。維子狼が口元をほころばせたのは、その時に口に含んだ酒の甘さのせいではない。


「なら俺も、父の目の届かないところでは少し肩の力を抜くことにしますよ。それでいいかな、子蘭どの?」


 まだ敬語ではあるが、先ほどまでの堅苦しさはない。その言葉に姜子蘭は顔を明るくした。




 次の日から、姜子蘭は何かにつけて維子狼と連れ立って外出することが多くなった。

 市井を見て回り、時には霊戍の城外に狩りに出かけることもあった。また、姜子蘭の部屋に維子狼が訪ねて来て兵法や歴史などについて教えることも多々あった。

 その間、居心地の悪い思いをしていたのは盧武成と脩である。

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