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春秋異聞  作者: ペンギンの下僕
双士戟弓
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天時不如地利、地利不如人和

 維子狼が姜子蘭を連れて行ったのは酒場であった。

 屈強な顔つきや引き締まった体躯を見るに、主な客層は兵士たちなのだろうと姜子蘭は思う。そういう身分の者たちにとって維子狼は主君の子であり、時には将であるのだから居住まいを正して敬意を払うものだろうと思ったが、そういう気配はない。

 維子狼と兵士たちは爾汝の友のように気兼ねなく接している。一応、兵士たちにはそれなりに敬意のようなものはあるが、宮廷や軍中にあるような堅苦しさはまるでなかった。


「うん、まあお前らと呑んでやりたい気持ちはやまやまだが今日は父から与えられた使命の最中だからな。つーわけで親父、奥の席を借りるぜ。雁肉入りの煮餅(しゃへい)を二つくれ。後は、俺には酒と、こちらには(なつめ)の汁物を」


 店主らしき恰幅の良い男にそう頼むと、維子狼は姜子蘭を店の奥に案内した。

 そこは店内からは死角になっており、喧噪は聞こえてくるがこちらからも他の客からも様子が見えないようになっている。店内でも兵士たちは床にじかに置かれた机の前にむしろを敷いて座っていたが、そこには横並びの長椅子があり、対面して腰掛けることが出来るようになっていた。


「さて、では暫しお待ちください。巷間にある陋屋なれど、この店の料理はいずれも絶品でございます。あと少し、善き酒を仕入れるだけの伝手と店主に愛想の欠片でもあれば樊国一の飯店となれるのでございますがな」


 維子狼はまるで舌に油でも塗っているかのように饒舌に話した。

 その時、背後から店主が二つの椀を持ってやってきた。そしてその椀を乱雑に机の上に置いた。中の液体が椀の中で波打ち、あふれ出たものが机を濡らした。


「食事はもう少し待っていろ」


 店主はぶっきらぼうな声で言う。姜子蘭は何も言っていないのだが、少し悪いことをしたような気になった。

 しかし維子狼は安心させるように笑いかける。


「あれが常でございます。お気になさいますな。岩から生まれ落ちたような気性でございましてな。生粋の愛想なしなのです」


 そう言われて姜子蘭はふと思い出し笑いをしてしまった。当然、どうされましたかと維子狼が聞く。


「いえ、申し訳ありません。武成のことを考えていました。彼も不愛想で、笑ったところを見たことがないなと思いまして」

「ほう、虞の王子の前でもその振る舞いとは、やはり肝の据わった御仁でございますな盧武成どのは」


 維子狼は出された椀を手に取って酒で口を湿らせて笑う。姜子蘭も棗の汁物を呑みながら小さく笑った。


「ところで盧氏はまことに王子の臣ではないのですか?」

「はい。前にも申し上げた通り、あの方は義侠から私を助けてくださったに過ぎません」

「では――正式に臣になさるおつもりはありませんかな?」


 維子狼は声を落とし、真剣な顔つきをして聞いた。


「王子が我が父を頼って霊戍に来られたことは望外の喜びなれど、それはこれから王子が為さんとされる大業のほんの一歩目を進まれたにすぎません」

「……それは、分かっています」

「戦いに勝つためには天の時、地の利、人の和が必要です。そして、天の時は地の利に如かず、地の利は人の和に如かずとも申します。大業を為すためには優れた者を味方につけなければなりません」


 維子狼は諭すように言う。姜子蘭は静かに頷いていた。それは、姜子蘭自身に十分に自覚があることであったからだ。


「我ら維氏は誓って王子と虞王のお味方なれど、王子が未だ一人の臣も持たぬ身であることは危うきことと密かに憂慮しております。王子が真に偉業を為さんと欲されるのであれば盧氏を直臣となさいませ」

「それは……。そうなってくれればよいと思っている。維子狼どのの言葉は最もです。ですが、あの人はどうも名誉や富貴というものに関心がないように思うのです」


 そう思う気持ちもまた姜子蘭の本心であった。

 盧武成は姜子蘭が杏邑に行きたいと頼んだ時にも、霊戍まで同行してくれた時も報酬について口にすることはなかった。范玄のところに均を送り届けた時にも、始めは礼物を受け取ることを拒んだほどである。

 それは財貨に興味がないというのもそうであるし、加えて言うならば自分の行為に対して見返りを受け取るということを好まないのではないかとも姜子蘭は思っていた。


「仰ることは分かりますとも。ですが、言うだけでも試みられてはいかがでしょうか?」

「だが、私には武成に示せるものが何もない。今の私が何を約束したところでそれは水に証文を書くようなものではないか」


 ふむ、と維子狼は困ったようにあごを撫でた。


 ――盧武成という男も、どうにも面倒くさそうな雰囲気であるが、こちらの王子も卑屈な方向に頑なであらせられるな。


 謙虚で人が善く、他者をおもんばかることが出来るのは徳である。しかし人の上に立って大きなことを為そうという人間はそれだけではいけない。この王子には、俗な言い方をするのであれば、図々しさが足りていないと維子狼は感じた。

 その時、店主が大きめの器を二つ持ってやってきた。そしてやはり乱雑にその器を机に置き、一言もなしに引き返していった。


「まあ、こういった堅苦しい話はまた次の機会にいたしますかな。ここでは政治を語るよりも、酒で喉を潤して美味に舌鼓を打つための場所でございます」


 維子狼は表情を一変させ、破顔して見せた。

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