譎詐を用いる者は大成せず
珍しいものをご馳走したい。維子狼にそう言われて姜子蘭は頷いていた。
維子狼は姜子蘭に許しを得るとともに維氏の邸を出て夜の霊戍の街へと連れて行ったのである。
護衛の兵士というものはいない。姜子蘭は維子狼から剣を貰い腰に佩いてはいるが、身を護るものと言えばそれくらいである。
「いけませんな王子。これから大業を為そうというお方が、食事に釣られて昨日会ったばかりの者と二人で夜の街に繰り出すというのは、実に軽慮でございますぞ」
城市の中までやってきてから、維子狼は揶揄するように言った。その指摘を聞いて姜子蘭は顔を真っ赤にし、肩をすぼめて恥じらいを見せた。そんな姜子蘭を見て維子狼はからからと笑っている。
「いや、これは失礼を致しました。私から誘っておきながらこのような言い方はよくありませんな」
「……しかし、維子狼どのの言は最もです。もしや、維子狼どのは私を試すつもりであのようなことを言ったのですか?」
「決してそのようなつもりはございません。ですが、そういったことも念頭に置かれますようにと、差し出がましいながらご忠告しておいたほうがよろしいかと思いましてな」
その言葉の中に姜子蘭は維子狼という人物の優しさを見た気がした。
維子狼のほうもそういった姜子蘭の反応を見つつ、
――やはり素直というか、なんとも純朴な王子だ。
と感じた。
無論、人の上に立つ者が素直で他者の言うことに従順すぎるのはよろしくない。しかしすべてを自分で決めようとする頑迷さを持つよりはいいだろうというのが維子狼の考えである。
維子狼にとってそういう観点では、父たる維弓は理想の族長と呼べる人物であった。維弓は臣下の言をよく聞き、善いと思う案を採り、悪い案は用いない。それでいて成功は臣の手柄として褒章し、失敗は己の不徳として戒める人物である。
維子狼にとって人の上に立つ人物といえば維弓しかいないということもあるが、こういう人物が上に立ってこそ世の中はよいものになるであろうという気持ちがあった。
しかし同時に、自分の前途に対して昏いものを感じてもいた。
今は維子狼は維氏の族長の子という立場であり、維弓からその才を認められている。しかし、維弓が死んだ後のことを考えると沈鬱な気になるのであった。
というのも、維子狼は庶子であるからだ。しかもその母は翟という山間民族の族長の娘であり、かつて維弓が北方の諸民族と友誼を結ぶより前に翟氏を攻めた時に降伏の証として差し出された女なのである。
その娘は美貌を備えており、ために維弓の寵愛を受けて維子狼が生まれたのだが、維子狼を生んで間もなくして死んでしまった。それでも維弓は維子狼を我が子として愛し、その才を認めてくれたが、血の繋がらぬ兄や維弓の正妻からは疎まれている。維弓が死ねば、よくて閑職を与えられるか、そうでなければ放逐か誅殺の憂き目を見ることは明らかである。
といって、兄たちと後嗣争いを行い、逆に自分が相手を謀殺して樊の少卿の地位を継ごうとは思えぬのが維子狼であった。維子狼には、その気になれば容易く出来るという自負はある。ただ、どうしてもそういう気になれないのであった。
それは孝悌の情などではない。
維子狼には、
――譎詐を用いて貴位を得た者は大成せず、やがて破滅する。
という考えがあった。もちろん世の中には悪人が牀の上で死に、善人が路傍で朽ちるような理不尽は数多ある。悪を為して身を立てた者は必ず破滅するとは言い切れない不条理が世にあることも知ってはいるのだが、維子狼はこの考えを崩すことはなかった。この点で維子狼という男は夢想家であるともいえる。
とにかく、維氏の中で立身出世を図ることに望みを抱いていない。しかし、不遇のままに一生を終えるつもりもなかった。
ならば維氏の下を離れ、誰かに仕官するしかない。
そんな時にふと、虞の王子が維氏を頼ってやってきた。この王子に仕えるというのはどうだろうかと維子狼は考えたのである。
といって、軽率な判断は出来ない。詐りを嫌う維子狼にとって、一度誰かに仕えたならばその相手を裏切るということは出来ないのである。だからこそ維子狼は、姜子蘭という人物を見極めなければならないという気持ちを強くしていた。
霊戍の城内に夜がやってきた。
しかしそこに宵闇の黒はなく、至るところに炬火が灯されていて昼間のように明るい。道行く者の多くは胡服を着ており、ある者は鳥の羽根で作られた冠をかぶっており、ある者は羊毛で作られた裘を羽織っている。そのすべてが姜子蘭にとっては物珍しかった。
維子狼は好奇を惹く様々なものに目移りしている姜子蘭を見失わぬよう、時折足を止めて声をかけつつある店に姜子蘭を連れて行った。
その中には屈強な男たちがやかましく騒いでいたが、維子狼のほうを見ると一斉にその下へやってきた。
それは嫌悪や敵意ではなく、親愛である。維子狼の下にやってくる男たちは皆、友人を迎えるように喜悦を顕にしていた。
――維子狼どのは慕われているのだな。
姜子蘭はそう感じた。