天、我が父の意を叶えん
盧武成は維子狼と共に鬼哭山を抜けた。
そこには広大な大地が広がっている。そこはもう維氏の領内である。すでに魏氏の兵もおっては来ておらず、ようやく一つの危地を脱したのかと思うと盧武成はひとまず安堵した。
しかしまだ油断はしていない。
姜子蘭の無事を確かめるまでは敵地の只中にいるのだという顔つきをしている。
しかしいざその場所に向かうと、そこには無数の穹盧が並んでいた。案内されたその奥では姜子蘭と脩が歓待されている。
二人は西に座し、その卓の前には豪勢な食事が並べられている。しかし姜子蘭も脩もその食事に箸をつけた様子はない。
そして二人は盧武成の無事な姿を見ると顔を喜色で満たした。
「無事であったか武成!!」
「餮とやりあって生きてた男だから心配はいらないと思ってたけれど、しかしやっぱり強いねあんた」
二人は盧武成に駆け寄って抱きついた。しかし盧武成のほうはその反応に困ったような顔をしている。
やがて再会を喜びあうと姜子蘭は維子狼の前に跪いて拝手した。
「窮地をお救いいただき、誠にありがたく存じます維子狼どの。幸甚の至りであり、この姜子蘭、感謝の言葉もありません」
その反応に維子狼も膝をついて姜子蘭に拝手した。
「恐縮にございます。我が父――維弓は常日頃より虞王の苦境を嘆いており、何か虞王朝のお力になりたいと口にしておりました。そして今日、王子が我が父の領にお越しくださったことで天に我が父の想いが届いたのだと感じております」
そう言うと維子狼は姜子蘭の手を取って着座を勧めた。そして、手つかずの膳を見る。維子狼は僅かに眉をひそめた。その反応を見て姜子蘭はもう一度、維子狼に拝手する。
「維子狼どの。厚かましさは承知なれど、どうかもう一人分の食事を用意していただきたい。そこにいる御仁――盧武成どのは虞朝に縁なき旅人の身でありながら義侠心から私を助けてくださったのです。彼よりも先に我が身の空腹を満たすことは出来ません」
そう言われて維子狼は破顔した。
維子狼は姜子蘭が、北地の食事は口に合わぬ故に手を付けていないのではないかと思ったのである。しかし姜子蘭が食事を我慢していた理由を知って納得した。
そして部下に命じ、すぐに盧武成の食事を用意させたのである。
やがて運ばれてきたその食事は、豪勢なものではあったが姜子蘭に饗されたものに比べるとやや劣るものである。
これは配膳をした者に悪意があるのではなく、膳の内容で身分を表すことが礼である、ということに過ぎない。この場で最も高貴なのは間違いなく姜子蘭であり、その従者たる者に姜子蘭と同じ料理を振る舞うわけにはいかないのだ。
加えて言うと脩の膳は盧武成のそれよりもさらに一段劣るものである。それでもご馳走であることに違いはないのだが、脩が最も身分として劣ると思われているのだ。
盧武成は無論、そのことを弁えているので文句など言わない。脩はそもそもそういうことをよく分かっていない。
姜子蘭としても、それが自分に向けられた敬意であることは承知している。その上で、躊躇うことなく自分の膳と盧武成の膳と取り替えた。さらに取り替えた膳を脩のものと替え、自分は一番粗末なものを食べたのである。
盧武成は姜子蘭の行動に困ったような顔を見せたが、有無を言わせずそうされたので何も言えなかった。脩はよく分からないままに姜子蘭と膳を取り替えた。
そしてそれを見た維子狼は、
――この王子はこういう人か。
と、一人感心していた。
功のある人に報いることが出来、そのために自らの贅沢を迷いなく断てる。なかなか出来ることではないと密かに称賛したのである。
そして同時に、話の中で盧武成が姜子蘭の臣ではないと知って驚いてもいた。
――よくもまあ、こんな火中の栗を義侠心だけで拾えるものだ。
維子狼は姜子蘭と盧武成、そして脩の旅路の委細は知らない。しかし二人の様子を見ればほとんど着の身着のままの旅であり、魏氏の兵に追われていたことからその道程が安寧と程遠いものであったことは容易に想像がつく。
並のものならば見切りをつけて逃げ出すだろう。いや、虞王朝に忠義を誓っていたとしても、忠誠を放り出して行方をくらますかもしれない。
しかし盧武成という男は姜子蘭を守ってここまでやってきた。
もし姜子蘭が盧武成に後の栄華や報奨を約束していたとしても、人は定かならぬ後の大金よりも目先の安寧を取ると維子狼は思っている。
しかし盧武成はそれをせず、姜子蘭を守り続けた。しかも鬼哭山では、一銭の得にもならぬのに蒋不乙に一矢報いるために吶喊したのである。
――その気になればどこにでも仕官の路はあろうに、随分と不器用に生きているなこの男は。
そう考えると維子狼は、姜子蘭という王子と共に盧武成という男にも興味を抱くようになった。