盧武成と維子狼
蒋不乙が地響きを上げて突進する鈍重な猪であるならば、盧武成は草原を風のように疾走する俊敏な狼である。
今まさにぶつかりあおうとしている二者を見て維子狼はそのようなことを思っていた。
面識はないが、蒋不乙の力量は維子狼も聞き知っている。些か短慮なところが瑕疵ではあるが軍の指揮を取っても個人の武勇を取っても大きな疎漏のない人物だ。
これに相対する盧武成のほうは全く分からない。容姿だけを見れば子狼と同じか、それよりも若い。にも関わらず肝が座っている。突如現れた維子狼にも、援軍が来たとすぐに受け入れることをせずに慎重になっていた。
武勇についても、ここまで姜子蘭を守ってきたのであれば相当な手練れであることに疑いはない。この場で退くことを良しとせず、馬を借りてまで蒋不乙に立ち向かっていったのは、魏氏への意趣返しの他に戦略的なこともあるのだろう。
ここで退けば当然ながら蒋不乙は追ってくる。維子狼にはそれでも自領の安全なところまで逃げ切る自信はあった。
しかし、可能であれば手痛い一撃を与えてから退きたいという思いもある。今の維子狼には十騎の兵しかおらず、見えぬところから弓に三矢を番えて打たせることでそれなりの兵が伏せているように見せかけはしたが、これが表に現れればすぐに数の不利が露見する。
それ故に目的を果たしてすぐに撤退したのだが、盧武成が自らやりたいと言うのであればそれを止める理由はなかった。
既に維子狼の横には騎兵の部下がいる。いつでもこの部下の馬に相乗りして逃げられるという状況で維子狼は盧武成と蒋不乙の戦いの趨勢を楽しそうに眺めていた。
蒋不乙の乗る戦車と騎馬にまたがる盧武成が交差する。蒋不乙は得物である七尺三寸(約1.97メートル)の大剣を振るう。嵐のような颶風が盧武成を襲った。
すれ違った時、遠のく馬上に盧武成の姿はない。
魏氏の兵らは、大剣の一撃に盧武成がはたき落とされたと思って歓喜の叫びをあげる。しかし喝采の渦の中にいる当の蒋不乙だけが違和感を持っていた。
――軽すぎる。当たった感触がまるでなかった。
そう思った次の瞬間、蒋不乙の乗る戦車が大きく揺れた。盧武成が飛び乗ってきたのである。盧武成は蒋不乙が大剣を振るうのを見計らって馬の背を蹴って飛び上がっていたのだ。
そして、手にした郭門の剣を振るう。狙うのは、大剣を持つ右手の手首だ。そこを剣の腹で殴打する。鈍い痛みに耐えきれず蒋不乙は大剣を落としてしまった。
盧武成はそれを見ると戦車から飛び降り、走る。その先には維子狼に借りた馬が律儀に足を止めて待っていた。その背に飛び乗ると馬首を優しく三度叩く。維子狼の言った通りに馬は一人でに走り始めた。
そしてその時になると維子狼もとうにいなくなっている。魏氏の兵は蒋不乙を気遣いつつもそこで動きを止めてしまった。
馬に道を任せて山中を駆け下りていく。その横に、部下の馬に相乗りした維子狼が合流した。
「鮮やかな手並みでございましたな」
維子狼は素直な称賛の言葉を送る。しかし盧武成は愛想笑いすらせずに、
「奇策を弄したのみです。褒められても面映ゆい」
と素っ気なく返した。謙遜ではない。盧武成は心底そう思っているのである。
「貴公はさぞかし歴戦の武者なのでしょうな。よろしければ尊名をお伺いしたい」
「盧武成と申します」
「なるほど。盧氏は謙遜家であらせられる。あるいは、己の理想となされるところが余程の高みにあるのですかな?」
維子狼はくくっ、と楽しそうに笑った。
盧武成は相変わらず、眉一つ動かさない。そして未だ気を張った面持ちをしている。
「ふむ、どうもまだ我らに心を開いていただけていないご様子ですな。まあ、魏氏の太鼓腹に粗雑に扱われていたようなのでそれも無理からぬことでしょうが」
その言葉に盧武成は沈黙を返す。その警戒を解きほぐそうと維子狼は笑みを投げた。
「そのお気持ちは理解いたします。ですが、智氏の狐よりも我らを選んで北地に足を運んでくださったことを悔いさせは致しませぬ」
そう言うと維子狼は背負っている箙と弓を投げ捨て、佩いていた剣を捨てた。そして前で手綱を握っている部下にも同じようにするように命じたのである。
「もし辿り着いた先で我が部下が王子に剣を向けていた時は、私を質になさるがよい。その上で王子を助けて逃げおおせることくらい、貴公の腕なら容易いでしょう」
維子狼は飄々として言う。
盧武成はどこまで本気なのかとその言葉を計りかねていた。維子狼が名乗りの通りの人物ならば維弓の縁者であろう。そのような高貴な立場の者がこうも容易く身を守るための武器を投げ出すことに怪訝さを覚えたのだ。
「何故にそこまでなされる?」
「我らは王子を大義名分にしたいのではなく、ただ虞王への忠義を示したいのでございます。しかし今の王子には一騎当千の勇者はあれど一兵すら有さず、しかも苦難の中に身を置かれている。その信を得るにはまずこちらから武器を捨てて礼を示さねばなりますまい」
維子狼にそう言われて、はじめて盧武成は僅かながら口元をほころばせた。
――面白い男だ。
盧武成は維子狼という男を、やはり信が置ける相手だと改めて認識した。