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春秋異聞  作者: ペンギンの下僕
双士戟弓
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山犬の爪牙

 鬼哭山に鳴り渡る鳥声のように甲高い音に、その場にいる者は皆思わずその動きを止めた。そして音のした方向を見る。

 その方向――盧武成たちの背後から、胡服を纏い乗馬した若い男が現れた。その目つきは狼のように鋭く、しかし口元には陽気な笑みを作って弓を構えていた。


「お初にお目にかかります。私は維子狼(いしろう)と申す者でございます」


 その男――維子狼はそう言いながら騎馬を悠然と躍らせつつ盧武成の前に進み出た。


「霊戍の城主、維弓の臣下が一人にして、不才ながらその武官の末席を汚している者です。以後お見知りおきを。馬上にて失礼ではございますが、どうかお許しいただきたい」


 蒋不乙は維子狼を睨む。しかし一騎であるため侮りがあった。姜子蘭たちを逃さぬようにさえ気をつけていれば、いざとなれば諸共に始末してしまえばいいと考えているのである。


「さて、そちらは魏中卿の大司馬にあらせられる蒋氏でございましょう」 


 維子狼は慇懃な態度のまま言った。


「知っているなら話が早い。我らはそこの者らに用がある。どいてもらおうか」


 自分の立場を知られていることに驚きつつも、そのわずかな動揺を悟られぬようにと蒋不乙は高圧的に叫ぶ。しかし維子狼は怯みはしなかった。


「それは困りましたな。私もこちらの方々に用事がございます。ですが大司馬ほどのお方が来られているとなれば余程の大任でありましょう」

「そうだ。分かったならば疾く下がれ、孺子!!」

「御身のお立場は承知いたしました。ですが私も君命で参っておりますので――ここは一つ、私の顔を立てていただきましょう」


 その言葉に蒋不乙は、眼を血走らせて怒った。柔和な笑み、丁寧な言葉のままに維子狼は、譲歩しろと臆面もなく言い放ったのである。

 そこで始めて維子狼は口元を獰猛に歪めた。大人を相手に悪戯を企む悪童のような顔つきをしている。


「大人しく逃げ帰り、維氏の子狼に追い返されたと魏の太鼓腹に復命するがいいぜ」

「何を小癪な!!」


 蒋不乙が大剣を振り上げて号令を下す。十乗を越える戦車が一斉に襲いかかろうとしていた。

 盧武成は剣を構えて戦う姿勢を見せたが、維子狼は盧武成を目で制すると、背負った箙から矢を抜いて弓に番える。

 その矢は鏑矢(かぶらや)と呼ばれる、先端に鏃の代わりに円筒形の細工がついたものである。円筒の細工には穴が空いており、放つと穴から空気を吸い込んで笛のような音を発する仕組みとなっている。


「どうやら杏邑の雅な方々は山犬の言葉を解する耳をお持ちでないらしい。ならば我らは山犬らしく、爪牙を持って答えるとしよう」


 維子狼が天頂に向けて真っ直ぐに鏑矢を放つ。甲高い音が再び響き渡ると同時、魏氏の兵の左右から三十を越える矢が降り注いだ。魏氏の兵は突進を止めてそちらへの対処に追われることとなる。

 とりわけ蒋不乙の左右に控えている戦車は、楯を構えて蒋不乙を守ることを優先させねばならかなった。

 魏氏の兵は混乱に陥った。その間に、いつの間にか維子狼の横には騎兵が二騎、控えている。そして維子狼は下馬しており、姜子蘭に恭しく一礼した。


「些細は後に致し、まずはこの危地を脱しましょう。無礼は承知でございますが、今は私と旗下の馬の背にお乗りいただきたい」

「いや、感謝します維子狼どの。どうか、よろしくお願いいたします」


 姜子蘭も礼を返し、姜子蘭と脩は維子狼の部下の馬上に乗せられた。そして風のような速さでこの場を離れていく。

 そして盧武成と維子狼が残された。

 維子狼は盧武成に同乗して逃げるように言ったが、盧武成は立ち止まっていた。そして維子狼に拝手したのである。


「危機を救っていただいた上に頼み事をする厚顔を承知でお願いがあります」

「私に出来ることであれば」


 維子狼は物腰を柔らかくして答えた。


「貴公の馬を暫しお貸しいただきたい。蒋氏に礼をせんと思います」

「ほう。構いませんが、騎馬の心得はお有りですかな?」


 盧武成は頷く。虞の臣としては珍しいと思いつつ、その言葉を疑うことはしなかった。そして自分の馬を快く盧武成に貸した。


「蒋不乙さえ殺さなければ、後はご随意に。返礼が終わりますれば此奴の首を三度叩いてください。此奴が貴公を我らと王子の元へ運んでくれましょう。私は後で部下に拾いに来させるのでお構いなく」

「かたじけない」


 そう言うと盧武成は馬に飛び乗る。

 同時に、維子狼が王子という言葉を口にしたことに少し警戒を覚えた。

 維子狼は事情を分かった上で姜子蘭を助けたのである。しかし魏盈の例もあるので、まだ手放しで安堵は出来ない。

 しかし盧武成は、維氏――維弓の思惑は分からぬが、少なくとも維子狼のことは信が置けると見た。馬上でもう一度拝手すると、郭門の剣を手にして、ようやく体勢を整えた魏氏の戦車の中へと吶喊して行った。

 盧武成は他の戦車には目もくれず、蒋不乙ただ一人を目指して戦車の隙間を縫うように馬を走らせた。

 蒋不乙のほうも盧武成を見据えている。その挑戦を受けると言わんばかりに大剣を構え、御者に命じて戦車を前進させた。

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