黒き天蓋
白日が穹盧に差し込んだ。
その光の明るさに目を眩ませながら、青年は立ち上がる。背が高く、今は寝起きで緩んだ顔つきをしているが、目を細めればその眼差しは狼に似ていると人は評する。
男は大きく伸びをすると穹盧から出た。
ちなみに穹盧とは木の棒を柱として立て、幔幕を巡らせた組み立て式の住居のことである。主に山間の族や遊牧民が寝起きに使うものであった。
「おや、夜更かしを過ごされましたかな子狼どの?」
鎧を着こんだ壮年の男にそう呼ばれて青年――子狼はにやりと笑った。
そして、
「昨夜の女がなかなか寝かせてくれなかったもので」
と、さらりと言った。壮年の男はその言葉を軽く流す。そして子狼に耳打ちをした。
「――ほう、魏氏の兵が鬼哭山に入ったと」
その報告を耳にして子狼はいっきに真面目な顔つきをした。
ここは維氏の兵の陣営であり、今は国内の巡邏をしている最中なのである。
壮年の男は名を楼冄と言い、この部隊の責任者である。一方の子狼はまだ二十二の若さであるが楼冄から一目置かれていた。
それは子狼が維氏の長である維弓の子だから、という理由もある。
しかしそれだけではなく、子狼――彼の場合、氏は当然ながら維であるので維子狼となる――には軍事の才覚に目を見張るものがあることを知っているからだ。
「楼右尉どの。私に十騎お貸しいただきたい」
維子狼はそう言って頭を下げた。ちなみに右尉とは楼冄の官職である。
楼冄は心配そうな顔をした。その少なさで大丈夫かと維子狼の身を案じたのである。しかし維子狼はこともなげに笑った。
「元は右尉どのが我が父から預かっている兵でございます。真偽定まらぬ報のために多くを動かして本来の任に差し支えてがあってはなりません。異変あればすぐに知らせに戻りますし、危険があれば脱兎の如く逃げかえるのでご安心を」
維子狼はそういうとさっさと胡服だけを身に纏い、弓と箙を背負った十人の騎兵を引き連れて颯爽と南下していった。
鬼哭山の山村で盧武成は、姜子蘭を狙う鴉を斬り落とした。
鴉が生きた者を襲うというのもおかしな話であるが、そんなことなど気にならないほどに異様なことがあったのである。
「なあ、武成……。その、私には今、この鴉が脩の影の中から飛び出たように見えたのだが?」
姜子蘭は唇を震わせて言った。確かにそう見えたのだが、あり得ざることであり、我が目を疑っているのである。しかし盧武成は真面目な顔で頷いた。
そう話している間に、気が付けば周囲には無数の鴉が三人を囲むように渦を為して飛んでいた。先ほどまで朝日が差し込んでいた村は、今は夜のように暗くなっていたのである。
「子蘭、脩。金色の目の鴉を探せ」
そう叫んだが、やがて鴉たちは一斉に三人めがけて飛んでくる。
姜子蘭と盧武成は木剣や剣を振るって鴉を追い払い、あるいは切り払った。しかし鴉は次から次へと絶えることなく飛来してくる。二人は脩を守るように剣を振るっているが、それも限界に近かった。
しかしその時、脩が、西だと叫ぶ。盧武成が振り返ると、点描のように群れた鴉たちの奥に確かに金目の鴉がいた。
盧武成は懐から短剣を取り出し、その鴉めがけて思い切り投げつけた。矢のようにまっすぐ投げられた短剣が金目の鴉の左翼を裂く。
と同時に、それまで群を為していた鴉が急に離散していったのである。
しかしそのうち、何十羽かの鴉だけは逆に一か所に――金目の鴉の下へ集まっていった。やがてその体が溶け合っていき、人の形を為していったのである。
現れたのは、黒い外套を身に纏った男である。だが、その顔には襤褸布が巻き付いていて判然としない。とにかくその全容は黒に包まれており、影法師が屹立しているようにも見えた。
そして、男には左腕がなかった。血が噴き出す左腕を押さえながら、しわがれた声を放つ。
「……ふむ。この術を知るか。貴様、名は?」
腕一本を失いながらも男は落ち着いている。その声には、谷底から吹き上げる風のような薄気味悪い冷ややかさがあった。
「お前の如き外道に名乗る名などない。知り得ることを洗いざらい話すか、その気が無くば疾く死ね」
それに応える盧武成の言葉は辛辣である。しかしそれも無理のないことであった。眼前のこの男は明らかに外法の術を駆使しているからだ。
「生憎と……どちらも断るよ。しかし貴殿の知識には感服する他ないな。故に――この場は退くとしよう」
そう口にすると、その体は再び無数の鴉へと変わった。
盧武成は追おうとするが、鴉に遮られて進むに進めない。
その時である。
脩が弓に矢を番えた。そして放たれたその矢は鴉の群れの合間を縫って進み、逃げていく金目の鴉を負い、その胴体を貫いた。
矢に貫かれた金目の鴉は、地に落ちるとやがて膨張していき、先ほどの男の姿となった。しかしその体は既に動かず、物言わぬ骸と成り果てていたのである。
ここまで起きた出来事に、姜子蘭は理解が追いつかなかった。
そしてそれは、この男こそがこの村の住人を殺した張本人であり、金目の鴉を倒すことでその命脈を断てるのだと思って矢を放った脩も同様であった。盧武成の言動から確信はあったのだが、いざその顛末を目の当たりにすると、やはり信じられないという感情のほうが勝っていたのである。