餮
二人の前に現れた虎は、とにかく大きい。低く呻りをあげており、その鳴き声は地響きのようである。
「……まずい、餮だ」
「て、餮? それはもしやと思うが、饕餮の餮か?」
「そんなことは知らないさ。私の親父はそう呼んでいたよ」
二人はそんな話をしながら、ゆっくりと後ずさる。脩は山に棲む者の知識として知っており、姜子蘭は前に盧武成に教わったことであった。
自分では決して勝ち目のない獣にあった時には、なるべく刺激することのないように、声を殺しながらゆっくりと、背を向けずに後進するのがよいのである。
今の二人にとって武器と呼べるものは姜子蘭が杖替わりに使っている木剣と、脩が持つ自作の弓と鏃のついていない木製の矢が二本だけであった。
脩の体は震えている。
姜子蘭も歯噛みをしながら、恐怖で叫びだしたいのを必死になって堪えていた。
餮と呼ばれた大虎はゆっくりと、しかし確実に二人に近づいてきている。飢えた目をしており、しかも気が立っているようであった。
そしてついに我慢が出来なくなったのか、號、と吠えながら勢いよく駆け出してきた。
その威勢に怯え、脩はその場に倒れこんでしまう。
姜子蘭はその時、自分だけでも逃げるべきだと思った。ここで自分が死んでしまえば、勅命を持って諸侯から兵を借り、虞王を救い出す者がいなくなってしまう。虞王の御代に翳りがあることは天下万民の苦しみであり、その憂いを払うことこそが自分の使命である。
頭ではそう理解しているのだ。
しかし実際に姜子蘭が選んだ行動は真逆のものであり、一歩前に踏み出し、虎の眉間に木剣の鋭い一撃を叩きこんだのである。それは会心の一振りであり、もし姜子蘭の手に握られているのが虞王朝の宝剣であったならば、あるいは一閃にて餮を殺し得ていたかもしれない。
しかし木剣では大した攻撃にならず、かえって餮を刺激してしまった。
背後の脩に逃げろ、と叫ぶ間もなく餮が襲い掛かってくる。姜子蘭は死を覚悟した。しかしいつまで経っても餮の牙が姜子蘭の肌を貫くことはない。それどころか餮は苦悶の雄たけびをあげた。
「無事か、子蘭!!」
叫び声がしたかと思うと、二人は首根っこを掴まれて勢いよく遠くへ投げ飛ばされた。
投げ飛ばした男――盧武成が、餮の背に剣を深々と突き刺したことで二人への攻撃は止まったのである。
「武成!!」
姜子蘭は安堵に顔を綻ばせた。武成はしかし、愛想の一つも見せずに餮のほうを見る。
餮はいっそう気性を荒くして盧武成を睨んでいた。そのために姜子蘭と脩は餮の殺気から逃れることが出来た。
だが脩はまだ震えている。
「おいお前、いくら知り合いが来たからってなにもいいことなんかないぞ? 死体が一つ増えるだけさ!!」
「そうか? だが武成は相当に強いぞ」
姜子蘭は少年の無邪気な眼差しを脩に向けた。
「そんなのは所詮、人と戦って強い、くらいのことだろう? ただの人間が碌な武器も持たずに虎になんて勝てるわけがないに決まってるよ。私の親父だってあいつに食われた。親父は狼だって弓の一矢で仕留めちまうほどの狩人だったけど、それでも飢えた虎には勝てなかったんだよ」
そんなことを話している間に盧武成は餮にのしかかられていた。
先ほどまで楽観していた姜子蘭も焦りの色を見せる。脩は、かくなる上は二人で逃げようと言い出した。それ以外に、この場で一番多くの生存者を出す選択はないかに思えたからだ。
しかし、のしかかり、大口を開けて盧武成の体にかじりつこうとしたところで餮は、凄まじい腕力に妨げられて体をそれ以上近づけることが出来なかった。盧武成は餮の肩を掴んで抑えている。体重で言えば餮のほうが圧倒的に重いのだが、餮は体を動かせないでいた。
逃げようと言っていた脩もその光景に圧倒されていた。
そして盧武成は、自らも口を大きく開けて餮の前足を思い切り嚙みつける。餮が激痛に悶えた。そうして暴れる餮の体を左手で抑え、右手を懐に入れると短剣を取り出して風のような速さで振るう。そして餮の喉元を裂いた。
餮はその後も暫く暴れまわっていたが、やがてこと切れて動かなくなる。盧武成は餮の死体をのけると、餮の血で汚れたのを気にもせずに姜子蘭の下へ行く。
安否を問われて頷きながら、姜子蘭は盧武成の強さに圧倒されていた。
脩もまた口を大きくあけて、夢でも見たのではないかという気になって目をこすっている。
「……なあ、あんたの知り合いはルーペイ・ツーイーか何かなのかい?」
「……その、ルーペイ・なにがしとやらは分からないが、人間ではある、と思うぞ」
脩の問いかけに姜子蘭は困ったように返した。しかし確かに、剣一本と短剣一つで自分の体躯に数倍する虎を倒してしまったその行動は人間離れしており、脩の疑問ももっともである。
そんな会話をしている少年少女を見て盧武成は心外だと言わんばかりに鼻を鳴らした。
「俺をなんだと思っている? 覚えてはおらぬが、お前ら同様に母の腹から生まれてきたに違いなかろうさ」
「本当かい? 岩や神木が気まぐれに産み落としたと言われても不思議じゃないんだけど?」
その言葉に盧武成は愠色を顔に出した。
「おい子蘭。なんだこの口の減らない小娘は?」
怒り交じりの声で聞かれて、姜子蘭は慌てて脩のことを紹介した。
第一話を加筆しました。気が向かれましたらぜひ再読ください!!