平地の愚者
次の日の朝。姜子蘭は、まだ日が昇るよりも早く目が覚めた。
まだ体のあちこちが軋む。しかし、いつまでも休んではいられないという焦りがあり、痛みに耐えて強引に寝床から起き上がった。
周囲を見回すが、そこに脩の姿はない。
ふと、短剣と木の枝が目に入った。昨夜、脩が矢を作っていたところである。半分ほどは先端の鋭利な矢になっていたが、残りはそのままだ。どうやら寝るまでに作業を終えられなかったらしい。
姜子蘭は短剣を手に取り、脩の動きを思い出しながら矢を作る。積まれた枝がなくなるまで、ひたすらにその作業を続けていた。
やがて、日が昇った頃に脩が帰って来た。その手には雉が二羽、握られている。胸に穴が開いていた。脩が矢で射たのである。脩は矢を作っている姜子蘭を見て眉をひそめた。
「何してるんだい、あんた?」
「矢を作っているんだよ。見よう見まねだから、君が使えるほどの出来栄えかどうか自信はないけれどね」
姜子蘭は屈託なく笑った。
――余計なことをしやがって。
脩は苛立ちを覚えた。材料である木の枝とて、矢に使えそうななるべくまっすぐなものを選りすぐって集めて来たのである。善意のつもりかもしれないが、出来栄えが悪く、兎の一匹も仕留められないような矢を仕上げられては堪らないと思ったからだ。
しかし、姜子蘭が作った矢は存外しっかりとしていた。脩の目から見て、普段の猟に使うのに問題のない出来である。その驚きを素直に口にすると姜子蘭は、
「前に木剣を自作したことがある。その要領でやってみたんだ」
と、安堵したように言った。
その日は、姜子蘭はとにかく脩のやることを何でも手伝おうとした。脩は迷惑そうな顔をしたが、あまりにも姜子蘭がしつこいので仕方なく、簡単なことを選んで、薪を割らせたり、川辺に行って大きな石を集めさせたりといったことをやらせた。
姜子蘭はまだ怪我のために動きが鈍いが、それでも痛みを言い訳にせずに言われたことをこなした。
夕刻になって脩は聞いた。
「なあお前。なんで怪我人のくせにこんなことするんだよ? 私は別に一人でも困ってないって言っただろ? それが二人に増えたところで、鳥や兎を一羽多く持って帰れば済む話で、迷惑なんて何もないんだよ」
「まあ、脩にとってはそうなのだろうさ。だからこれはまあ……私の自己満足なんだろう」
「少なくとも、物好きだよお前は。怪我をおしてまでやることかい?」
そんなことを言ってはみたものの、実は脩はこれまでの人生で親を除いてはほとんど他人と接したことがないのである。なので話しながら、案外、平地の人間というのは誰も彼もこういうものなのかもしれないとも思った。
そして翌日。
まだ日が昇り切らない時である。脩が起きて、朝飯になる獲物を捕まえに行こうとすると、姜子蘭はもう起きていた。
「おい、何してるんだいお前?」
「いや、そろそろお暇をしようと思ってね。あまり長居をし続けても脩に迷惑がかかる」
「私は迷惑なんかしちゃいないさ。むしろそんな死にかけの奴を一人で野に放つほうが胸に悪いね」
そう言って脩は姜子蘭を寝床に戻そうとする。しかし姜子蘭はそれを拒んだ。怪我人とは思えないほどの力であり、脩が両手で押しても姜子蘭の体は少しも動かない。巨大な岩を一人で動かそうとしているような気になった。
「そういうわけにもいかないさ。私は平地で殺し合いをしている身だからな。今も追われていて、その者らがここに押しかければ脩も私の仲間だと思われてしまうだろう」
姜子蘭は脩に気を遣わせないように笑った。
「君の言葉には色々と考えさせられるものがあったよ。しかしそれはそれとして、私の心はやはり使命を果たせと訴えかけてくる。立ち止まってはいられないのさ」
「……そうかい。あんたは、愚かな奴だね」
脩は眉を逆立ててみせた。
「そうだな。きっと、そうなのだろう。だからこそ、私のような平地の愚者が、山間に隠棲している脩の営みをこれ以上騒がせるわけにはいかない」
そう言われると脩としても返す言葉がなかった。しかしそのまま見送るのは気が咎めたので、せめて近場の村までは案内することにした。
まだ日は登っておらず、うっすらと霧がかかっている。
右手には断崖、左側には小川の流れる山道を二人はゆっくりと歩いていた。しかし脩がふとその足を止める。目を凝らしてみると、前方に何者かが倒れていた。甲鎧を身に纏っている。
「魏中卿の……私を追っている兵士であろうか?」
「まあそうだろうね。しかしそれにしちゃ様子がおかしいよ。先ほどから少しも動かない上に……」
何かがおかしい。そう感じた脩は周囲を見回した。その時、鼻腔に僅かに匂いが届いた。生臭く、鉄のようなそれが何であるか、山で過ごす脩はとてもよく知っている。
――血の匂いだ。
そのことに気づいた脩はすぐにその場から逃げ出そうとした。だが、遅かった。
霧の中から倒れている兵士の体を乗り越えて、大きな虎が姿を現したのである。貪婪に輝く赤い双眸が、姜子蘭と脩を睨みつけていた。