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春秋異聞  作者: ペンギンの下僕
双士戟弓
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山民の理

 少女は暖炉に薪をくべると、姜子蘭が寝ている横に枝を何本も置く。そして短剣を取り出すと、その棒を削り始めた。


「……それは、何をしているんだ?」

「見りゃ分かるだろ? 矢を作ってるのさ」


 少女はぶっきらぼうな声で言った。そして姜子蘭のほうを見ることもなく、ひたすらに作業を続けている。


「君、名前は?」

(しゅう)だよ」

「そうか。脩が、私を助けてくれたのか?」

「桃の木の枝に宙づりになってるのをここまで運んでやった、という意味ならそうだね」


 どうやら姜子蘭の落ちたところには巨大な桃の木があり、その枝の中に飛び込んだことで地面と触れ合うことがなく、一命をとりとめることが出来たようである。しかし衣服は裂け、あちこちに打撲と切傷の痛みがある。しかしそこにも包帯が丁重に巻かれていた。これも脩がやってくれたらしい。


「そうか。私は……子蘭という旅の者だ。感謝する、脩どの。この恩はいずれ……」


 軋む体を無理やりに起こして姜子蘭は拝手する。しかし、脩は手を止めてきっ、と眦を決して姜子蘭を睨んだ。


「やめておくれよ。恩だの礼だの、そんなもののために助けてやったわけじゃないさ。森に住む者は、相手が誰であっても死にかけていたら助けてやるもんだよ。いつかは私も、死にかけて誰かに助けてもらうことがあるかもしれないからね。ただそれだけのことさ」


 脩の目には怒りが込められている。姜子蘭はその視線の強さに圧されてしまった。


「さてはあんた、平地の人間だね。そう言えば今日は獣たちが騒がしいと思ったけれど、血なまぐさくてくだらない人間同士の争いの果てに、ここまで逃げ延びてきたってことかい?」

「く、くだらなくなどはない。私は虞王朝の大義のために――」

「なんだいそれは?」


 そう言われて姜子蘭は思わず赫怒した。盧武成との旅の中で、身を慎み、苦難に耐えることを少しずつ習得していた姜子蘭であったが、虞王朝のことを知らぬと言われては我慢が出来なかった。

 姜子蘭にとっては、虞王朝こそがこの世のすべてであり、あらゆる忍耐と努力はすべて王朝のために費やすものなのである。脩の言葉は姜子蘭という人間のすべてを否定されたに等しいのだ。


「君はこの大陸に住む百姓でありながら、天子の治め奉る朝廷の名すら知らないのか?」

「天子って何だい?」

「天下万民の父であり、大陸に秩序を示す天日(てんじつ)の如きお方である」


 姜子蘭の言葉は熱を帯びている。しかし脩はその言葉を鼻で笑った。


「そういえば、死んだ親父から聞いたことがあるよ。平地のほうじゃ貴族だの諸侯だのという連中がのさばっていて、他人を働かせておいてその上米を()ねながら何もせずに贅沢をして暮らしてるって。つまり天子ってのは、さしずめその悪党どもの親玉ってわけだ」

「そのようなことはない。天子は万民を教化し、百姓が安寧に日々を過ごせるように心を砕いておられる。諸侯、貴族とはその助けを務めるためにある。無論、租税という形で民の労働の成果の一部を納めさせはするが、納められたものよりも大きな形で民に返すことこそが天子の務めなのだ」


 姜子蘭は巫帰に教えられた知識を口にした。これは、姜子蘭にとっては絶対に譲れないことである。

 しかし気の強さでは脩も負けていない。


「私の住んでいる場所にはその天子とかいう太陽の光は届いちゃいないさ。だから租税なんてものを取られもしないし、別に教化なんてされなくても一人でこうして生きていけている。つまり天子なんてものは私にとって、いてもいなくても変わりのないものなのさ」


 姜子蘭は言葉を詰まらせた。天子――虞王のことを軽んじるような発言は正さねばならないという気持ちがあるが、しかしそれをしなかったのは脩の言葉にも正しさを感じたからである。


「そういうくだらないものに命を賭ける奴らの気が知れないね。人間なんて所詮、食事と寝床があれば生きていけるのさ。その算段に心を砕きながら日々を過ごしている間に気が付けば死んでしまっているような存在なのに、それ以外の諍いをわざわざ起こして争う奴らの気が知れないね」


 姜子蘭はすっかり黙り込んでしまった。

 脩の言葉は、山中で自給自足をして生きている者の価値観である。それは、これまで姜子蘭が身を置いてきた境遇とは天地ほどの違いがある。

 それを、無知であるとか、辺境の山民ゆえの蒙昧と切り捨てることは簡単だ。しかし、天子が万民の父であるならば、こういう言葉にこそ真摯に耳を傾けるべきではないかと思ったのである。

 すっかりと静かになった姜子蘭を見ると、脩は視線を木の枝に戻して作業を再開した。


「ま、それはそれだ。あんたの怪我が治るまでの面倒は見てやるよ。その後は、平地に戻って殺し合うなりなんなりと好きにするがいいさ」


 すでに脩の神経は矢を研ぎ澄ますことに向けられており、ほとんどついでのようにそう言った。

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