降るは不義なり、死すは不義なり
姜子蘭の落ちた峡谷を眺めている盧武成の元へ複数の足音が近づいてくる。
その先頭に立った、巨大な剣を持った大柄な男――蒋不乙は獲物を追い詰めた虎のような眼差しで盧武成を睨んだ。
「王子は落ちたか。ふむ、ならば死体だけでも回収せねばなるまい」
独り言のようにそう呟いてから盧武成に声をかける。
「不運であったな。お前の主人は死んでしまったぞ。もう戦う理由もなかろう。降るのであれば悪いようにはせん」
盧武成は既に体に何本かの矢傷を受けており、疲労で息が上がっている。
これまで盧武成の精神を支えていた最後の糸のようなものも既に切れた。蒋不乙はそう見ている。
蒋不乙は盧武成の強さを認めている。しかしそれは姜子蘭という忠義を示す主君があってこそであり、姜子蘭が死んだとなればもう戦えないだろうと思っていた。
しかし盧武成は立ち上がると、きっと蒋不乙を睨み、手にした剣を振るった。稲妻の如き閃光が蒋不乙を襲う。手にした大剣で受け止めたのだが、その巨体がわずかに後ろに圧された。
――まだこれほどの力が残っているのか。
恐るべき体力であり、恐るべき心力である。
「仇討ちでもしようというのか? 見上げた忠誠心だな」
蒋不乙は心を弾ませていた。まだ若くはあるが、決死の覚悟を決めた強い戦士と戦えるかと思うと嬉しくなったのである。確実を取るのであれば、ここは自らは下がり、弓兵に囲ませて射殺すのが常道である。しかし蒋不乙はむしろ進み出た。
蒋不乙は後方にあって軍を指揮するだけでなく、戦っても強い。むしろ戦の中で強敵と火花を散らすことを望んでさえいた。その相手として申し分ないと盧武成は思われたのである。
しかし盧武成は、つい先ほどまでは動揺していたが、今は落ち着いている。
そして蒋不乙の言葉を否定した。
「俺は子蘭の臣ではない。そして、仇討ちをするつもりもない」
「ほう。ならば何故投降しない? 臣下でないというのならばなおさら、命を賭ける理由はあるまい?」
「まだ俺は子蘭の死をこの目で確かめていない」
眉一つ動かさずにそう吐いた。それが盧武成の、この場で退けぬ唯一の理由である。
「俺は子蘭を霊戍まで連れていくと約束した。たとえその身が光の届かぬ峡谷に消えようとも、天佑があればあるいは生きているかもしれない。それを確かめぬうちに降ることや死ぬことは信義に反する」
「ならば、王子の死をその目で見届けたならばどうする?」
「その時は、貴様らの首を持参して黄泉で子蘭に詫びるとも」
そう言って盧武成は前に踏み出した。手足に矢傷を受けているとは思えぬ速さである。
盧武成の剣が蒋不乙の大剣と交わる。夕暮れの森の中で二つの刃が何合も打ち合った。蒋不乙の兵たちは遠巻きにそれを眺めている。矢を射れば蒋不乙に当たるおそれがあるので使えないし、といって敵は盧武成一人なので他にすることもないのだ。
そもそも彼らは蒋不乙の豪勇を知っている。盧武成がいかに強くとも、弱年であり手負いである。蒋不乙が遅れを取ることなど万に一つもあるまいと楽観していた。
しかし、やがて兵らに少しずつ動揺が走る。
二人の戦いは、常に攻め立てているのは蒋不乙であるのだが、未だ盧武成に傷の一つもつけられていない。
その時、初めて盧武成が自分から剣を振るった。大空を舞う燕の如き速さで振り上げられた剣先が蒋不乙の眉間を切り裂く。
蒋不乙は大きくのけぞった。傷をつけられたことにいら立ちを見せたが、盧武成も舌打ちをした。首を狙った一撃を避けられたのを、己のしくじりと思ったのである。
「流石は魏氏の将だな。なかなか強い」
「図に乗るな、若造!! この俺を誰と心得ておる!? 杏邑大司馬、蒋不乙だぞ!!」
怒りとともに大剣が振り下ろされる。風の裂ける音がした。
盧武成は大きく後ろに飛びすさぶ。そして落ちている石を拾うと、剣を振り下ろした直後の蒋不乙めがけて勢いよく投げつけた。石は真っすぐに飛んでいき、蒋不乙の右目に当たる。蒋不乙は思わず剣から手を放して右目を抑えた。
盧武成はその間にさっと走り、姜子蘭が落ちた峡谷に沿って走る。どこか降りれそうなところを探すためであった。
蒋不乙の兵らは盧武成を追ったが、ついに追いつけずに日が沈み、その姿は夜の帳に隠されてしまったのである。
暖炉にくべられた薪が弾ける音を聞いて姜子蘭は目を覚ました。
まず目に入ったのは茅葺である。姜子蘭はどこか、見知らぬ場所で寝かされていた。
魏氏の兵から逃げている最中、深い峡谷に落ちたところまでは覚えている。しかしそれから先のことについて覚えがなかった。もしや捕らえられてしまったのだろうかと思い、とりあえず周囲の状況を確認するために体を起こそうとする。しかし、わき腹に走る鈍い痛みのせいで起き上がることが出来なかった。
「ふん、起き上がれるわけがないだろう。あの崖の上から落ちて来たんだ。命があるだけでも信じられないってのにね」
声がした。少女のものである。
姜子蘭が首だけでそちらを見ると、そこには姜子蘭と変わらぬくらいの齢の少女が立っていた。