鬼哭山
姜子蘭と盧武成の旅が八日を過ぎたあたりで異変が起きた。
それまでも、立ち寄った邑や村で二人の人相や風体に似た者を探している、という触れはあったのだが、明確に魏氏の兵が二人を狙ってくるようになったのである。
倒しても逃げても次から次に、しかも組織だって迫ってくるので、
――魏氏め。我らが北へ逃げたと確信して、動かせる兵のすべてをこちらに向けてきたな。
と盧武成は悟った。
唯一、利点があったとすれば、魏氏の兵の戦車を倒して馬を確保できたことである。しかし、追われながらの旅をすることを想えば、苦しくとも追手とは無縁のままに徒歩の旅をしていたほうが良かった。
盧武成が無双の戦士であることに違いはないが、いつ襲われるか分からない旅路を続けるよりは、時を費やそうとも気楽な旅をしていたほうがましというものである。
しかも敵方は盧武成の強さを知っており、二人を補足するとまず矢で射かけてくるので盧武成としても迂闊に近寄れない。これが無策に接近してくる相手であれば戦車の五乗や十乗くらいは盧武成にとって物の数ではないのだが、矢で狙われているとなると逃げるしかなくなってくる。
しかも、無理な旅を続けているので馬のほうもかなり弱ってきていた。
それでもどうにか逃げ続け、維氏の領まであと三十里(約十五キロ)のところまでやってきた。しかしそこで、ついに馬のほうが限界に達したのである。先に盧武成の馬が疲労から倒れ、姜子蘭の馬に二人の乗ったのだが、悪路で膝の骨が折れて動けなくなってしまった。
二人はやむなく歩くことにした。
魏氏の兵はやはり戦車が多いので、少しでもその追跡を躱すために山道を行くことにした。しかしそれがいっそう二人の疲労を加速させる。二人とも気合で歩を進めてはいるが、いつ倒れてもおかしくない状態であった。
魏氏の軍中にあって、姜子蘭の追跡を任されているのは蒋不乙という将であり、齢四十の、大剣を担いだ巨漢である。
勇猛で知られた人であり、父は魏盈がまだ樊の六卿であった頃に魏氏の家宰を務めていた。蒋氏は魏氏に仕えて長く、蒋不乙もまた魏盈への忠誠に厚い。
魏盈の治世を政治、謀略の方面から助けているのが魏仲洪であり、軍事の方面で助けているのが蒋不乙であると言ってよい。彼は杏邑大司馬という地位を与えられており、それは魏盈の臣下における軍事の頂点の地位である。
故に本来であればこのような前線に出てきて指揮をするような立場ではないのだが、今回は事が事だけに、魏盈直々の命令で出陣していた。
戦塵の最中にあって武器を振るい、兵を鼓舞することこそが蔣不乙の本分であるのだが、意外にもこの任務に対する意気込みは高い。
――あの魏仲洪めがしくじった任務が回って来たのだ。うまくやれば、俺の権勢はあの陰険鼠を上回ることが出来るかもしれん。
蒋氏は元は家宰であるが、その曽祖父は当時の魏氏の族長の弟である。蒋氏は魏氏の中では由緒ある家柄であった。蒋不乙にも、自分こそが魏盈の右腕であるべきだという自負がある。しかし実際には、魏盈は魏仲洪のほうをこそ信頼している。
いかに魏盈の弟とはいえ、どこぞの卑しい女の腹から生まれた男が自分より上に立っている。蒋不乙にはそのことが許せなかった。
いつの日か魏仲洪を排斥して高位を得たい。そう願っていた蒋不乙にとってこの役目は打ってつけである。
しかしその思いに反して、姜子蘭はなかなか捕まらない。
配下は一人しかいないが、その一人が恐ろしく強いらしい。そう聞いて蒋不乙は策を練った。
「兵を三十、北に先回りさせよ。この地からであれば王子らの一行はおそらく鬼哭山を通るであろう。そのあたりを警戒しておけ。後の者はこのまま俺と共に来い」
鬼哭山とは魏氏の領の北辺にある大山である。
しかし魏氏の領というわけではなく、かといって維氏の領でもない。山中にはいくつかの山村があるのだが、その規模は明らかではなく、領有しても旨味がないので二氏ともにほとんど手を伸ばしていない、いわば狭間の地であった。
その頃、姜子蘭と盧武成は、蒋不乙の予想通りに鬼哭山を目指していた。
盧武成もまた、鬼哭山が魏氏の領ではないと知っており、少しでも早く魏氏の領から脱したいと思っての進路であったのだが、向かう先に魏氏の兵が待ち受けていたのを見て舌打ちをした。
やむを得ず、舗装されていない林間を進むことにした。二人とも長旅で足が棒のようになっており、体に溜まった疲労も尋常ではない。それでも、ここで止まればすべてが無駄になってしまう。そう分かっているからこそ二人は足に力を込めて山道を進んだ。
しかし、不慣れな地であることが二人にとって災いした。
そろそろ日が暮れるという時間になって、いつの間にか二人は山道の近くまで出てしまったのである。しかも間の悪いことに、見上げた山道には魏氏の戦車が走っている。二人に気づくと、戦車から雨のように矢が撃ち込まれた。
「走れ子蘭!! 日が暮れれば奴らも無理に探せぬはずだ!!」
「わ、わかった!!」
盧武成は姜子蘭を先に行かせ、自らは剣を振るって矢を防いだ。
二人は未だ木々の中にいる。戦車はここまで乗り込むことは出来ないし、魏氏に騎兵はいない。このままいけば逃げ切れるだろうという目算が立った、その時である。
黄昏を裂くような鋭い絶叫が聞こえた。姜子蘭のものである。
盧武成が振り向くとそこに姜子蘭の姿はなく、よくよく近寄ってみるとそこは底の見えない深い峡谷となっていた。盧武成が覗き込んでも、そこには日の光は少しも当たらず、灰色の岸壁が見えるだけだった。