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春秋異聞  作者: ペンギンの下僕
王子漂泊
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盧武成の自問

 まだ、ようやく空が白み始めたかという時刻である。盧武成は自害してしまった范旦を埋葬するための穴を掘っていた。

 均は范旦の遺骸に縋り付いて鳴き声を上げている。


「お前も掘れ、均。泣いていても范どのが生き返ることはないぞ」


 正しく、それだけに子供にとってはとても残酷な言葉を盧武成は容赦なく投げかける。

 均はそれに怒ることをせず、むしろいっそう悲しそうな顔をした。


「お前の悲しみは分かる。しかし、これはどうにもならぬことだ。だが均よ。まだお前には三つ、范どののために出来ることがあるぞ」


 そう言うと、少しだけ均は落ち着いた。


「このままでは范どの骸はいずれ鳥の餌になってしまう。そうならぬよう穴を掘り供養することが一つ。東には范どのの子息がおられる。そこへ赴き、遺髪を届けることで范どのがその子息によって葬礼を行えるようにすることが二つ目。そして、そこでお前も喪に服して范どのの魂の安寧を願うこと。これが三つ目だ」


 盧武成の言葉は難しくて均にはよく分からなかった。

 だが、范旦の体がこのままでは獣に喰らわれてしまうかもしれない、ということだけは分かり、涙をぬぐって立ち上がると鍬を手に取って盧武成と共に穴を掘り始めた。


「ええと、お兄さんは」


 なんと呼んでいいのか分からない様子の均を見て、まだ均には名乗っていなかったことを思い出した。


「盧武成だ。盧でも武成でも好きに呼ぶといい」

「では……盧様」

「様はいらん。呼び捨ては気後れするなら、盧どのとでも呼んでくれ」


 愛想はなく、手を止めることもせずに盧武成は言った。


「では盧どの。大旦那様は、どうしてご自害なさったのでしょうか?」

「均。お前、字は読めるか?」


 均は静かに首を横に振った。つまり范旦の残した血文字は、均にとってはよく分からない血の線に過ぎないのである。


「范どのは虞の王畿に住んでいることを誇りに思い、虞王を尊敬していた。故に、虞の民として死ぬことを選ばれたのだ」


 本当の理由は、武庸までの旅に老人である自分がいては足手まといとなる。それでは均のためにならないと思っていたこともあるのだろう。しかし、わざわざ血文字を残すあたり、盧武成の語ったことも間違いではない。


「私は、無学なので大旦那様のお考えはわかりません。ですが、王朝や王といったもの、誇りや尊敬というものは、自ら死ぬ理由になるものなのでしょうか?」

「――わからん」


 盧武成は声を荒げて叫んだ。朝から穴を掘り続けたことの疲れではない。その顔には確かに怒りがある。


「俺には范どのの気持ちなど何一つ分からぬよ。ただし言えることは、人はそれぞれに信じるもの、望むもの、曲げられないものを抱えている。そのためにどう生きて、時に死を選ぶことを自分で決めたのであれば他人が文句を言うことは出来ない、ということだけだ」


 怒鳴りながら、やり場のない怒りをぶつけるように盧武成は穴を掘り続けた。水害の影響で水を多く含んだ泥は重く、それでも手を止めない。


 ――勝手に死んで、昨日会ったばかりの他人の俺に自分の家人のことを託すとは。


 盧武成の抱えるのは范旦への怒りである。

 范旦は盧武成と均のことを思いやったつもりなのであろう。事実、丁稚一人のために自害するというのは、大店の主人の行動らしからぬものであり、それを躊躇いなく行った范旦は有徳の人である。

 しかしそんなものは范旦個人のことであり、盧武成には関係がない。

 残された均にも関係のないことである。

 そして――虞王に準じて死にたいというのも、やはり本心なのであろう。一度は逃げたのにまた西に戻ってきて、家人がどれだけ減っても孟申に留まり続けた人である。均のことが背中を押したのであり、本心ではずっとそうしたかったのではないかとさえ思う。

 ならば、王朝とは何だと盧武成は思わずにはいられない。

 范旦は市政の人である。官人として虞に仕えているわけではない。それでも忘れることが出来ず、近くにいたいと望み、その一命さえ捧げたいと思っていた。


 ――ならば范どのをしてそう思わしめた王朝とは、国とは、王とは何だ!!


 元をただせば虞に暗君が生まれたことが多くの災難を生んだのだ。

 それを招いたのは今の虞王――姜寒ではない。しかし、姜寒にも罪はある。弱いことだ。力がないために、顓という蛮国の恫喝にあっさりと屈してしまった。それがために顓は悪政を敷き、民を苦しめている。水害に際して何もせず、多くの無辜の民を苦しめているのも元を正せば虞王の罪であり、そういう意味では范旦も被害者と言えよう。

 それなのに范旦は虞王を怨むようなことをせず、最後まで敬意を向けて死んだ。

 均に語ったように、盧武成はその生き方を否定することはしない。資格はないと思っている。

 それでも、胸の奥から絶えずこみ上げてくるこの憤慨をどう鎮めればいいのか分からなかった。


 ――父上よ。私に、広く世界を見ろと言ったのは、こういうものを知らしめんがためだったのか。


 盧武成はまだ若い。その齢は十九である。

 均の前では悟ったようなことを言うし、淡々と現実を突きつけもするが、まだまだ世の中に満ちている不条理を知らず、そういったものを前にしてどうしてよいのかということを知らなかった。

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