才人在野、天下将知三年其名
家人が持ってきた剣を前にして呉展可と呉西明は頭を悩ませていた。
この剣は、元は姜子蘭の剣であり、盧武成に与えられたものである。盧武成は呉展可にその管理を頼んでいたのだが、盧武成はそれを持たずに杏邑を後にしてしまった。
「どうします、父上? 我が家で預かっておきますか?」
呉西明はそう聞いたが、呉展可は何事かをずっと考え込んでいる。
しかしやがて自分の考えを決め、立ち上がった。
「西明。お前は今からその剣を持って盧武成どのを追いかけよ」
いきなりそう言われて呉西明は目を丸くした。父の考えが分からなかったからである。
「盧武成どのはいずれ天下に名を馳せる方であろう。その剣もまた無二の宝剣であることは明らかだ。そういった物は、相応しい持ち主の手元にあらねばならん」
「それは、そうかもしれませんが……」
「故に、お前は盧武成どのの下へその剣を届けよ。四年経っても盧武成どのと巡り合えなければ杏邑へ帰ってくるがいい」
こうと決めたら頑ななのが呉展可という人である。
呉西明にしても、盧武成を追いかけて剣を渡すということに異論はなかった。むしろ、盧武成と再会できるかもしれないと思うと旅に出ることが楽しみにさえなってきている。
ただし、何故四年なのか、とだけ呉西明は聞いた。
「才幹に恵まれた人が無名から頭角を現すのに三年あれば十分であろう。たとえ今は何の手がかりもなくとも、三年のうちにその名が聞こえてくるに違いない。消息が分かれば、そこから盧武成どのの下を訪れるのに一年あれば足ろう。そして、三年が過ぎ、四年経っても天下がその名を知らぬとあれば、その時は盧武成どのに天命がなかったということになる」
なるほどそういうものか、と呉西明は一応頷いた。
長年、黄河で商いを行い、独自の嗅覚と機智で呉氏を発展させた人である。呉展可にはきっと、人の素質を見るのに三年という区切りを設ける、という感覚があるのであろう。
呉西明はそう考えて納得し、宝剣を持って旅に出た。
だが、今のところ盧武成は杏邑の東門から逃げたということしか分かっていない。そこから東西南北どこへ向かったのか、まるで雲をつかむような話であった。
その時、呉西明はある話を思い出した。
呉展可の懇意にしている同業に蘇伯宜という老人がいる。人当たりのいい穏やかな人なのだが、巫術を好み、私生活においては普段の衣食や子供たちの婚家など、何を決めるにも必ず占いをして決めるという人であった。
この蘇伯宜の家には今、一人の客人がいる。
呉西明の聞いたところによれば、蘇伯宜の孫が港の船を眺めているときにうっかり足を滑らせて落ちたところにたまたま居合わせ、飛び込んで助けた恩で逗留しているとのことであった。
ここまでであれば蘇伯宜が恩義を忘れない人だ、ということを示すだけで終わるのだが、それだけではない。この客人は観相の達人であるという。
ある夜。
蘇伯宜がたまたま夜更けまで酒を呑んでいた時のことである。その客人は不意に蘇伯宜の部屋を訪ね、
「今から一刻(二時間)のうちに床に就かれれば、貴方は家財の半分を失うことになる」
と告げた。蘇伯宜は言われた通りに起きていると、庭のほうから何か物音がする。様子を見に行くとそこには賊が押し入っており、ちょうど今まさに蔵の鍵をこじ開けようとしているところだった。
蘇伯宜は慌てて家人を叩き起こした。
そして腕っぷしのある人夫らを賊に向かわせ、足の速い丁稚に自警団の詰所に走らせた。その時、たまたま夜警をしていたのが呉西明であり、話を聞いてすぐにかけつけた呉西明らの活躍によって蘇伯宜は事なきを得たのである。
呉西明は後になってその話を蘇氏の家人から聞いたのだ。
そのことを思い出して今、蘇伯宜の客であるというその人に相を見てもらえば何か分かるかもしれないと思い、蘇伯宜の屋敷へと向かった。
しかし、慌てて走っていったので、蘇伯宜の屋敷の近くで通行人とぶつかってしまった。
その時、呉西明はまるで巨岩にぶつかったかのような感覚がした。しかし、こちらから勢いよくぶつかってしまったはずの相手は倒れることなくその場に立っていた。そして、
「大丈夫か、青年」
と、呉西明に手を差し伸べた。
その男は、頭巾のついた真っ黒な外套を羽織っていた。頭巾のせいで目線は見えないが、その下から除く顔立ちは精悍である。齢のころは三十かそこら、といったところであった。
その人物に手を差し伸べられて呉西明は申し訳なさそうにしながらもその手を取った。
しかしその男は、立ち上がった後も呉西明の顔をじっと見つめている。
「ええと、どうなさいました? 私の顔が何か?」
「いいや。だが……お前、これから旅に出るのであろう?」
男は唐突にそう言った。言い当てられた呉西明は、眉間にしわを寄せて怪訝そうな顔をしている。しかしやがて、
「……もしや貴方は、蘇氏のお客人ですか」
と思ったのである。その問いかけに男は頷いた。
ならば、と呉西明は頼み込んだ。ある人を探す旅に出なければならないのだが、その相手がどこへ行ったのか分からないので占ってほしい、と。
男は少し困った顔をした。しかし、ぶつかってしまった非があるからと言って答えてくれた。
「南に行けば凶。西に行けば益なし、だ」
「それだけ、ですか?」
北か東に行けばいい、ということは分かった。しかしそのどちらへ行くべきなのか、男は語らなかった。呉西明が不満そうな顔を見せると男は、
「見えているものはある。しかしその相は、私がそれを口にして、御身がそれに従った時点で異なる結果に転じてしまう。巫術に携わる者は、時には多くを語らぬほうがよい場合もあるのだ」
と、無感情な声で言った。
しかしその後に、
「東に行くとも北に行くとも、その探し人には会えるだろうさ。これ以上のことを口にしては、かえって御身に不幸が起きる」
と言って助言すると、そのまま蘇伯宜の屋敷のほうへと向かった。
呉西明は何故だか、その言葉は信じてよいような気がした。顔すら見えず、愛想のない男であるが、その言葉には誠実さがあると感じたのである。
――東か、北か。
考えた末、呉西明は東に向かうことにした。盧武成は東門から脱出したので、ならば東のほうに逃げたのではないかと考えたのだ。
第一章はこれで終了です。明日からは第二章「双士戟弓」が始まります!!