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春秋異聞  作者: ペンギンの下僕
王子漂泊
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二卿貪大乱者也

 初めて盧武成と出会った時。

 顓の兵士から逃げながら、暴走する馬首に必死になってしがみついていた時も、自分の体の感覚というものがなかった。それでも天地がどちらかというくらいのことは分かっていた。

 今、姜子蘭が盧武成とともに経験したそれは、天地も、自分の体の軽重も、目に映る光景が夢なのか現実なのかさえ分からなかった。

 盧武成は姜子蘭を抱えて杏邑の東門から黄河に飛びこんだのである。

 しかしそれは一瞬のことであった。やがて、冷たい水が全身を包み込んだ。頭が大きく揺れて視界が真っ暗になる。姜子蘭の意識はそのまま闇へと溶けていった。

 やがて、木が熱を帯びて弾ける音で、姜子蘭は目を覚ました。見知らぬ山中で焚火が燃えており、姜子蘭の真向かいには盧武成が愛想の欠片もない顔で座っている。


「起きたか」

「……武成。ここは、どこだ?」

華山(かざん)だ。とりあえず、すぐには追手も来るまいよ。もう少し休んでおけ」


 華山は杏邑の北にある小さな山である。

 盧武成は黄河から抜け出すと、そのまま姜子蘭を抱えてここまで逃げたのである。それが昨晩のことであり、つい先ほどまでは盧武成も眠っていた。姜子蘭は丸一日の間起きなかったことになる。


「そうか。その……。助かった。感謝する」


 姜子蘭はひとまず感謝の言葉を告げた。そして次に、どうして助けてくれたのかを聞いた。

 盧武成にとっては杏邑まで姜子蘭を連れて来たことで義理は果たしたことになり、あの場で危険を冒してまで姜子蘭を助ける理由などない。それが姜子蘭には分からなかった。

 しかしそれは盧武成自身にも分かっていないのである。だから、さあな、とそっけない言葉でしか答えられなかった。


「さて、それでお前はどうするつもりだ? 魏氏には野望があり、おそらく勅書も奪われてしまったのだろう? 大人しく虢に帰るのか」

「いいや、勅書はある」


 そう言って姜子蘭は思い出したように懐に手を入れる。そこには濡れた革袋があった。開けて中を改めると、そこには勅書が無事にある。姜子蘭は安堵の息を吐きつつ、大切そうに勅書を抱きしめた。


「それに、この文書は魏氏を名指しているわけではない。樊伯に宛てて書かれた文章ともとれるものであった」


 魏盈の前で勅書を読み上げた時のことを思い出して姜子蘭は言う。実は姜子蘭も勅書の中身は教えられておらず、これを魏盈に渡して兵を挙げさせるようにとしか言われていなかったのだ。


「だから私は、これから智正卿の元へ向かおうと思う」


 智正卿とは智嚢のことである。


「樊の三卿で一番高位にあるのは智氏だ。それに智氏は姜姓であり、我らと同じく虞の武王を祖に持つ一族である。きっと樊伯を説き伏せ、三卿を率いて虞王のために戦ってくれるだろう」


 姜子蘭は顔に明るさを見せて言った。

 同姓のつながりというものはこの時代の大陸にあってはとても重い。同姓の者は祖を同じくするわけであり、その間柄は兄弟や親子に等しいとみなされるのである。前に書いた通り、樊も姜姓の国であり、故に虞王のために立ち上がったのだ。

 今、魏氏という寄る辺を失った姜子蘭が畿内の姜姓で最も有力な智嚢を頼ろうとしているのは当然の考えであると言える。

 しかし盧武成はその楽観に水を差すようなことを言った。


「やめておけ。智氏を頼れば、杏邑で味わった難を再び受けることになるだろう。せっかく危地から脱したというのにまた同じようなところへ飛び込むのは愚者のすることだ」


 そう言われて姜子蘭は眉間を狭くした。しかし、睨みつけても盧武成は澄ました顔をしている。

 姜子蘭は自分の心を宥めた。


「ああいや、すまなかった。確か……『己の考、疑うべきなり』であったな。どうしてそう思うのか教えてくれ。いや――教えていただきたい。盧武成どの」


 姜子蘭は師傅(しふ)に接するような礼儀正しさで聞いた。盧武成はきまりの悪そうな顔をする。


「今まで通り武成でよい。そうでなければ話したくはない」

「ううむ、そうなのか? ならば……教えてくれ、武成」

「いいだろう。智氏は今の樊で一番力を持っているのだ。その権勢は主家たる樊伯を圧迫している。だいたいからして智氏が勢力を拡大させたのは、撃鹿の戦いで敗れた畿内の諸侯を智氏が糾合していったからだ。これは魏氏も同じで、これら二氏は人の弱みにつけこんで己の腹を肥やす性質を持っている」


 盧武成の言ったことは真実である。樊の荘公が敗れた撃鹿の戦い以前は、樊の卿といっても、どの氏族も広大な領邑を持っているわけではなかった。しかし荘公の死と後を継いだ樊伯姜夷皐(きょういこう)の即位、そして魏氏との対立と和睦を転機に勢力を伸張させていった。

 この時の智嚢と魏盈は、かつて荘公に従った諸侯らを東西に分けて、それらを糾合する戦いについて互いに沈黙を通すという約定を結んでいる。当然のこと、維氏には内密にだ。

 このため、樊の周辺諸国は滅亡の憂き目を見るか、智氏、魏氏に臣従を誓うしかなかった。

 それはかつての樊の勢力図が智嚢と魏盈に二分されることになり、樊の弱体化につながる。樊の領で二氏のどちらにも属さぬのは維氏の領くらいのものであるが、それも二氏の有する領土に比べれば猫の額のごときものでしかなかった。

 しかしそれは、智嚢と魏盈の和睦から数年後の話であり、今の維氏――維弓の勢力は二氏に匹敵するものである。

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