盧武成、姜子蘭と再会す
姜子蘭が魏盈の屋敷から逃げ出した翌日のことである。
城内が騒然としているということを、盧武成は感じ取っていた。朝から戦車の往来が多く、巡回にやってくる兵士たちの目はすべて物々しい。何事かあったのであろうことは否が応にも察せられた。
その日、盧武成は自警団の詰所にいて棒術を教えていたのだが、たびたび兵士がやってきてどうにも落ち着かない。
呉西明に聞いてみると、こういった事情に精通している彼はすぐに教えてくれた。
昨夜、巡吏が不審者を見かけて声を掛けたところ、男は逃亡したらしい。その落とした物の中に維氏の領へ出入りするための割符があった。それも、簡素な通行証というわけではなく、維氏の臣が持つような重要な物である。
あの男は維氏の密偵であるに違いないとなり、たちまち魏氏の兵士たちは捜索を始めた。しかし夜通しの追捕にも成果は上がらず、今もこうして探しているのだという。
「魏氏の兵士も情けないとは思いませんか? 普段は偉そうな態度を取っているくせに、維少卿の山犬の一匹も捕まえられないとは」
山犬とは北方の山間民族らへの蔑称である。畿内の、それも平地に住む者たちにとっては車と舟こそが文明人の乗り物であり、馬の背に跨る彼らは山林をはい回る犬のように映っていたのである。
「どうですか、師匠。ここは一つ、我らが先に維氏の密偵を捕らえて魏氏の鼻を明かしてやりませんか?」
荒事と騒動を好む呉西明は声を弾ませて盧武成にそう持ち掛けた。
常であればこういう提案は断る盧武成なのだが、その日は不思議な予感があって、呉西明の言葉に頷いた。
「まあ、やるのは構わんがほどほどにな。あまり派手なことをやりすぎると、お父上の立場も悪くなろう」
盧武成は冷ややかな声で言う。しかし呉西明は棒を手にして笑っていた。
「我らはあくまで、魏中卿のために維氏の密偵を捕らえにいくだけですよ。城主が困窮していればその力になるのが臣民の務めというものでしょう」
そう言って二人は自警団の若者たちとともに城内に探索に出たのだが、手がかりはない。杏邑の巨大な城内を東奔西走している間に日が暮れてしまっていた。相変わらず城内は数多の兵士によってせわしない地響きが鳴っている。
そうしているうちに、盧武成はあることに気が付いた。
――兵士の動きの流れが変わった。
今までは散漫だった足並みが次第に揃い始めている。やがて、戦車も兵士も同じ地帯に集い始め、路地裏に続く道が魏氏の兵士によって封鎖されてしまった。
「諦めろ西明。どうやら狩りの勝負は魏氏の勝ちらしい」
「そのようですな。先ほどの戦車に乗っていた男。あれは、魏中卿の弟の魏仲洪ですよ。性格は陰険で頭が切れる、魏中卿の補佐役です」
そう教えられて盧武成は不思議に思った。確かに今、魏氏と維氏の関係は良好ではない。だからと言って四方の門はすべて抑えてあるのだ。この上、杏邑で第二の地位の者が陣頭に立って兵を指揮するということに奇妙さを覚えたのである。
――そういうことを部下任せに出来ない性格なのか。それとも、より厄介な何かが起きたか、だな。
いずれにせよ自分には関係のないことである。そう思いながら盧武成は何故か落ち着かない心地でいた。
そして、そんな動揺を察したのか、呉西明が盧武成に声を掛ける。
「口惜しいですな。一日、無駄足を踏んだことになります。それならばいっそ、せめて魏仲洪が維氏の密偵を捕らえるところまで見届けてから帰ろうではありませんか」
「それはいいが、どうするというのだ? この辺りの道はすべて魏氏の兵士が封鎖しているぞ」
「このあたりの裏道はすべて把握していますよ。まあ、お任せください」
呉西明は得意げに笑った。そして言われるがままについていくと、気が付けば薄暗い路地裏のほうへと入り込めていたのである。
ここまで来ると後は早い。建物の壁に跳ね返る喧噪を頼りにその方向へ足を運ぶと、ちょうど魏氏の兵がひしめいているところの後ろに出た。兵士たちは誰も盧武成たちに気づいていない。
囲まれているのがどんな人物なのか二人の場所から見ることは出来ない。
しかし、戦車の上にあって文官風の衣服を着た、この場にそぐわぬ格好の男が魏仲洪であろうということだけは想像がついた。魏仲洪は囲んでいる相手に何かを語りかけた。
それに答える叫びを盧武成は耳にした。旅の中で幾度となく聞いた声である。しかもその相手は、大音声ではっきりと、虞王の子、と言った。
囲まれているのは姜子蘭である。そこでおおよその事情を盧武成は察した。
魏氏は都合の良い駒にするために姜子蘭を幽閉し、姜子蘭は逃げ出した。その追跡のために魏仲洪という大物が自ら出張って来た、というのが盧武成の推測であり、それは当たっている。
そう言った事情はもはや盧武成には関係のないことだ。
関係などない。それなのに、自分の心の奥から沸き起こる衝動がそういった考えをかき消していく。
既に盧武成は、これから自分がどう行動するかを決めていた。
「呉西明どの――」
盧武成は飾り気のない声で呼びかける。その双眸には決意の炎が宿っていた。
「……どうされましたか師匠?」
様子がおかしい、と呉西明は思った。これまでひと月の間、弟子として盧武成と長く行動を共にしたが、こういった、腹を括ったような顔を見るのは初めてである、
「ここでさらばだ。受けた恩を返せなかったこと、お前から呉氏に詫びておいてほしい」
そう言うと盧武成は棒を手にして、戈矛が林のように立ち並ぶ魏氏の兵士の隊列の中へと飛びこんで言った。