四方剣林
魏盈の屋敷でのことに始末をつけた魏仲洪は兵に指図して姜子蘭を追った。
といっても、すでに魏仲洪には諦めの気持ちがある。魏香蘭からは何も聞き出せなかった。それに、兵士らの話からすれば姜子蘭は昨日の夜半には逃げ出したことになろう。今ごろは杏邑を出ているに違いない。
どの門から出たのか明らかにした上で、領内の各城や邑に命じて追捕を出す必要がある。それも、あまり表立ってやりすぎると智氏や維氏に王子の存在を悟られてしまう。事は密かに進めなければならない。
しかし夕刻になって部下たちから上がってきた報告によれば、姜子蘭はまだ杏邑を出ていない可能性が高くなってきた。
昨夜、維氏の密偵が杏邑の城内で発見されたことで各門は人の出入りについて特に警戒している。そしてどの門でも、姜子蘭の身なりに合致する少年が一人で杏邑を出たという報告はなかった。
――何者かの手を借りたか? いや、王子にそのような伝手があるとは思えない。
そう考えて魏仲洪は自ら車に乗り、兵を率いて城市に出た。
もうすぐ門が閉まる。今夜、総出で探せばあるいは姜子蘭の身柄を押さえることが出来るかもしれないと考えたのだ。
「身分の高い者を探そうとするな。むしろ、粗衣をまとい物乞いなどに身をやつしていると考えろ。挙動の怪しい者は片端から捕えてよい」
兵らにそう指示して、自らも馬車を走らせて街中を探す。
魏仲洪には、まだ姜子蘭が杏邑にいるという確信があった。
「一隊は宝石商を当たれ。玉やら金を銭に換えにきた少年がいないかと聞いてみろ」
高貴な身分の者は貨幣というものを使わない。そういうものを必要とせず、より高価な物同士で売買のやりとりを行うからである。魏香蘭であれば姜子蘭に路銀の代わりに宝石か何かを与えているかもしれない。しかし、それは高価ではあっても市井や旅においては何の役にも立たないものである。
宝石で支払いをしようとしても、出されたほうは困ってしまう。それが本物のかどうかさえ分からぬし、仮に本物だったとしても差額を払うことが出来ないからだ。
虢から杏邑まで旅をしてきた姜子蘭にはそういう知識があるはずであり、ならば何か高価なものを身に着けていればまずはそれを使い勝手のいい貨幣に換えるはずだというのが魏仲洪の考えである。
そしてその考えは当たりであった。
杏邑の港のあたりにある商人のもとに高価な玉を持ち込み、差額はいらぬので巾着に入るだけの刀銭に換えてほしいという、粗衣なれど身分卑しからぬ少年がやってきたという話があった。それもつい先ほどのことであるらしい。
魏仲洪は御者に命じて、自らその商人の邸のほうへ向かった。
そして周辺をくまなく探した。夜でも人で賑わっている往来を兵士で埋め、路地裏などを徹底的に探させた。普段、日が沈めば月の明かりさえ届かぬ薄暗い道は炬火で煌々と照らされて昼間よりも明るくなっている。
「王子らしき少年を見つけました!!」
遠くでそう叫び声があがった。
魏仲洪も車を走らせそちらへ向かう。そこには、五乗の戦車のと三十人の兵士に囲まれた少年――姜子蘭がいた。
姜子蘭は壁を背にし、木剣を構えている。もはや逃げ道はない。
「お探しいたしましたぞ王子。急にいなくなられましたので心配いたしました」
魏仲洪はこの場にあっても、言葉だけは丁寧である。
「それに――香蘭さまも心配なされております」
その言葉に、敵意を強く向けていた顔にわずかに迷いが現れた。魏香蘭にはまだ思うところがあるらしい。そう感じた魏仲洪はそこに付け込もうとしたが、しかし姜子蘭はすぐに首を大きく横に振り、木剣の柄で自分の頬を殴った。
「私は香蘭どのと別れを済ませました。互いに覚悟を決めての離別です。虞王の子としては勿論のこと――ただ一人の男としても、再び会わせる顔などありません。次に香蘭どのと見えるのは黄泉でありましょう」
頬に走る痛みをこらえて叫ぶ。後ろ髪を引かれていないと言えば嘘になるが、だからといってここで情けなく捕えられて再び魏香蘭と再会することは恥である。
姜子蘭と魏香蘭は本来であれば出会うことなどなく、時代のいたずらと奇縁によってたまたまその道筋がひと時だけ交わったに過ぎない。
彼女の人生においてはほんの一瞬にすぎないその時間だけでも自分のことを愛してくれたという事実だけで姜子蘭にとっては十分であり、その時間に未練を起こしてしまえば楽しかったあの時間さえも色褪せた価値のないものに変わってしまう。姜子蘭はそう思っていた。
だからこそ姜子蘭は、ここで惰弱を見せてはならない。
武器が木剣一つであれば、兵士を倒して剣を奪えばよい。走って逃げきれぬ相手であれば、戦車に乗りこんで奪えばよい。どれだけ無謀であろうとも、それを為すより他にないのである。
その意気込みを見て取った魏仲洪は、
――強情な王子だ。
と、舌打ちした。兵で囲めば大人しくなると考えていた魏仲洪にとっては思惑が外れた形となる。ならば仕方がないと思い兵に下知を下した。
「猿ぐつわの用意をしておけ。四肢を押さえたらすぐに噛ませろ。骨の数本は折っても構わん」
穏便に済ませることは出来ないと悟った。それでも魏仲洪にはまだ姜子蘭を殺すつもりはない。訓練された兵士が四十以上いて、少年一人を取り押さえることなど容易いと思っているからである。
その見立ては間違いではない。
しかしその時、この場の誰も――当事者である姜子蘭さえ予想だにしないことが起きたのである。
姜子蘭を囲んでいる兵士らの後方で騒ぎが起きた。かと思うと、炬火に照らされた宙に朱衣の男が跳躍している。がっしりとした体つきで背丈が高く、腰には剣を佩いており、その手には男の身長と同じくらいの長さの棒を手にしていた。
男は兵士らの肩の上を走りながら前に出ると、棒を構えて姜子蘭に背を向けて降り立った。
「――奇遇だな、子蘭」
「……武成?」
それは姜子蘭と共に旅をし、彼を杏邑まで連れて来た旅人――盧武成であった。