負怨毒、縦在天子之貴位、必滅身
部屋を出た姜子蘭は、周囲を警戒しながら、足音を殺して庭園の中を進んだ。既に勝手知ったる場所である。見回りの兵士の目を搔い潜って、塀沿いの桑の木をよじ登って塀を越えた。外には誰もいない。しかしそれなりの高さがある。
さっと飛び降りると、足の裏に激痛が走った。しかし歯を食いしばって悲鳴を堪える。そして、一目散に北に奔った。東西は水門であり、船がなければ出ることは出来ない。しかし南北は普通の門である。これらのことは前に外出した時に魏香蘭が教えてくれた。
魏盈の屋敷からそこまではほんの二里(約一キロ)ほどである。
走ればすぐにたどり着いたが、夜であるので門は開いていない。日が昇り、鶏が鳴けば門を開けるというのが決まりである。他にどこか出られる出られる場所がないかと探したが、当然ながらそのようなものはない。姜子蘭は近くの茂みに隠れ、息を殺して夜明けを待った。
気の長くなるような夜であった。
すでに逃げたことが露見していて、各城門に手配が回っていれば姜子蘭は逃げきれない。そういった急使のようなものが来ていないかということに意識を配りながら、今か今かと夜明けを待つ。
その時、地響きが聞こえてきた。
様子を窺うと、二乗の戦車が走ってきている。このような夜にいるのはおかしなことであった。
「おい、どこへ逃げた?」
「まだそう遠くへ行っていないと思われます。日が昇るまでは杏邑から出られぬでしょう」
「よし、片端から探していけ!!」
兵士たちはそのようなやりとりをした。
――露見したか。
ならば門から出るという手段は使えない。何も他の方策など思いつかないが、とにかくひとまず門から離れるしかなかった。
実はこの騒ぎは姜子蘭とは何の関係もなく、兵士たちが追っていたのは杏邑に入り込んだ維氏の密偵であったのだが、追われる立場であるという自覚のある姜子蘭には、追捕の者はすべて自分を狙ってやってくるという怯えがあり、杏邑を脱する機会を自ら遠ざけてしまったのである。
常であれば、昼夜を問わず姜子蘭の部屋の前には護衛の兵士が立っていることになっていた。
しかし姜子蘭が逃げた夜は、兵士らは少し離れたところに立っていた。夜中に魏香蘭が訪ねて来て、見張りの兵士たちに賂を渡した。そして、赤らめた顔を袖でさっと隠しながら、
「その、今晩だけは、部屋の扉には近づかないでいただけませんか」
と恥じらうような声を出したので、兵士たちも事情を察したのである。
姜子蘭が魏香蘭に執心しているのは周知の事実であったので、兵士たちも油断していた。しかし日が昇り、昼を過ぎてもどちらも部屋を出てこない。流石におかしいと思い飛び込むと、そこには魏香蘭が正座していた。しかし姜子蘭の姿はどこにもない。
「おや、思ったよりも遅かったですね」
微笑を浮かべる魏香蘭を見て、兵士たちは事態を悟った。
といって、魏香蘭は魏盈の娘である。手荒なことをするわけにもいかず、魏仲洪に事の次第を報告した。
魏仲洪は焦ることなく魏香蘭の元へ向かった。
そこには、話を聞きつけた魏盈もすでに来ていた。魏盈は烈火のごとく怒り狂っており、魏香蘭の顔を平手ではたこうとしている。魏仲洪はその手を掴んで制止した。
「何をする仲洪!! この婢は父である私を裏切って王子を逃がしたのだ!! もはや娘でもないわ!!」
「お怒りは最もなれど、どうかここは落ち着かれますように。香蘭さまの言い分も聞かねばなりますまい。ともすれば王子に恫喝されてやむを得ず逃亡に手を貸したのやもしれません」
そう言うと魏盈から手を放し、魏香蘭の前に座った。
そして、優しく子供を諭すように、ゆっくりと言った。
「香蘭さまは、子蘭王子に脅されたのでございましょう。そうであれば、香蘭さまの罪ではございません」
冷徹で陰謀家の魏仲洪であるが、この姪のことは嫌いではなかった。
ともに身分の卑しい母から生まれてきた子である。自分は魏盈に重用されているが、それはあくまで自分の才が有用であるからであり、本質では妾腹と見下されていることも魏仲洪には分かっていた。それでも自分は魏盈に仕えるほかに道はないと分かっているので、智慧を尽くして魏盈の治世を補佐しているのだ。
魏香蘭もそういう身の上にあると思うと、自然と同情的になっていた。
いざという時はやむを得ぬとも思っていたが、既に姜子蘭が逃げてしまった今になって魏香蘭を責めても仕方がないと考えたのである。
「王子がどこへ逃げたのかお教えください。そうすれば、我が君も香蘭さまのことをお許しくださいましょう」
魏仲洪は半ば懇願するように言った。ここで魏香蘭が素直さを見せれば魏盈に取りなすことが出来る。同時に、姜子蘭を追うことも出来る。情と打算の混在した声で魏香蘭に問いかけた。
しかし魏香蘭は立ち上がると、きっとして魏盈を睨む。魏仲洪の言葉など聞こえていない。強い怒りのこもったその眼差しには氷のような冷たさと炎のような鮮やかさがあって美しい。
「魏盈よ、私の父はお前などではない」
「なんだと……」
魏盈が驚愕に満ちた顔をした。そして、言葉の意味を悟った瞬間に、その顔は赫怒で歪んだ。
「いいか、たとえ天子や諸侯であっても人の怨みを買う者は身を亡ぼすという。お前は我が父母と私の怨みを買い、そして虞の王子の怨みを買った。たかだか樊一国の中卿が如き身分のお前がどうしてその怒りを逃れることが出来ようか。魏氏はいずれ滅びるであろう。この身は大地に帰り、魂は黄泉に溶けるともお前の破滅を見届けてやるぞ!!」
魏香蘭はそう叫ぶやいなや、懐から短剣を取り出して首筋に近づける。
鮮血が室の床を汚した。