二蘭離苦
杏邑から逃げろと、魏香蘭は姜子蘭に告げた。
それも低い声で、である。
監視していた兵士たちには魏香蘭が愛の言葉を囁いているように映ったであろう。しかし姜子蘭は一気に真剣な顔になった。
意図を尋ねようとした。しかしその前に魏香蘭はもう一度、熱烈に姜子蘭の口をふさいだ。そして、
「三日後。新月の夜に王子の部屋に参ります。そのおつもりで」
と告げると、服の袖で顔を隠してその場を走り去っていった。
姜子蘭は突然のことに戸惑いながらも、自室に戻った。それから二日間、魏香蘭は姜子蘭の前に姿を現さなかった。
一人で、姜子蘭は魏香蘭の言葉の意味を考えていた。
杏邑にこのままいてはいけないような気がする、という感覚は姜子蘭にも薄々あった。魏盈は自分を軟禁して都合よく使おうとしているのではないかと察していたからである。しかし魏香蘭は魏盈の娘であり、そういう懸念を抱いている自分を懐柔するために婚家の話を持ち出したのではないかと姜子蘭は考えていた。
事実、この数日間はとても充足した日々であり、魏盈の思惑があると察しつつも姜子蘭は魏香蘭という女性の虜になっていた。
姜子蘭はかつて巫帰に、
『大志を抱く者は、妻を美しさではなく賢さで選ばなければなりません。賢王、名君と呼ばれる人の正后はいずれもその賢才を示す逸話があります。一方、史書に名が現れる王侯の妾姫は美貌の人であり、その事跡は多くが君主を惑わせ国を乱すものでございます』
と教えられていた。要するに人の上に立つ者は女性の美しさに惑ってはならず、自らが抱く大望に理解のある伴侶を得るべきであるということである。事実、虞王朝の斜陽は姜子蘭の祖父である虚王が夏娰という美女に耽溺したことから始まった。
そのことは姜子蘭も当然ながら知っており、故に美女というものは恐ろしいものだとさえ思っていた。
しかし今は、魏香蘭に執心している自分がいる。魏香蘭は美しく、そして賢い女性である。姜子蘭は自分の心を俯瞰して、魏香蘭のことを愛していると思っていた。しかしそれが、彼女の美貌を愛おしんでいるのか、彼女の才知を好いているのかが分からなかった。
美しさに囚われれば目が眩む。
しかし、その賢さを疑えば身を亡ぼす。
考えた末に姜子蘭は、魏香蘭の言葉を信じることにした。それは、あるいは愚かな男の願望であるかもしれない。しかし、どう考えても自分の心は魏香蘭を信じたいと思っており、その結果が破滅であるならばそれでもよいかもしれない、とまで思っていたのである。
そして三日後。新月の夜である。
魏香蘭は夜半、ひっそりと姜子蘭の下を訪れた。
「――香蘭どの」
姜子蘭の目に映る彼女に詐妄の色は見えない。
姜子蘭は腹を括った。その覚悟に答えるように、魏香蘭は懐から革袋を取り出した。その中には小箱が入っているような感触がある。
「これをお持ちください。王子が持ってまいられた勅書でございます。懇意の宦官に命じて父の寝所から盗んで参りました」
そう言って、有無を言わさずに勅書を姜子蘭の懐にいれる。
「魏中卿は勅書と王子を利用して樊で為しあがらんと画策しております。王子の大志を叶えようなどという忠心は持ち合わせておりません」
「……そうか」
うっすらと察していたことではあるが、こうはっきりと言われると切ないものがあった。
「ですが、大陸は広うございます。どこかに必ず、王子を助け虞王をお救いしてくださる忠臣がおられることでしょう。王子の命とこの勅書は、そのためにお使いください。樊の卿同士の権勢争いの御旗で終わらせてはなりません」
真摯な表情でそう語る魏香蘭を見て、姜子蘭は疑問に思ったことがある。
「貴女はなぜ、そのようなことを言うのです? 魏中卿は貴女の父でありましょう」
魏香蘭の言葉を疑う心はない。しかしなぜ魏香蘭が、父である魏盈を差し置いて自分を助けてくれるのかが姜子蘭には分からなかった。
しかし、姜子蘭の言葉に魏香蘭は首を横に振った。
「私の父は魏中卿では――あの男ではありません」
その顔には怒りがあった。
「亡き我が母は里礼といい、魏氏の伯長である于環の妻でございました。しかし母の美しさを見初めた魏盈は我が父、于環を奄国との諍いのある東の前線に送って戦死させ、未亡人となった母を強引に妾にしたのでございます」
姜子蘭は絶句した。それが真実であるならば、とても人の上に立つ者の行いとは思えなかったからである。
「母は私に物心がつくと、そのことを私に教えてくれました。そして、母が魏盈の妾となる前に私は既に宿っていたとも言っておりました」
毅然とした態度でいるが、魏香蘭の目は潤んでいる。姜子蘭はどう言葉をかけていいか分からなかった。しかし、彼女がなぜ自分を助けてくれるのかについては理解した。
「私には既に孝を尽くすべき父母はおりません。ですが王子には虢にて顓戎に脅かされている虞王がございます。このような地で、魏盈の如き小人の大義名分として使われたままに終わってはなりません」
そう言って魏香蘭はもう一つ、木片を渡した。それは魏盈の公使であることを示す割符であり、これがあれば杏邑から脱することが出来る。
「部屋の前の兵士は下がらせました。部屋の窓から庭園に抜け、桑の木を登って壁を越えたら一目散に門を目指してください。日が昇るよりも前に杏邑を脱することが出来ましょう」
「ならば、香蘭どのも一緒に――」
姜子蘭は、思わず魏香蘭の手を取っていた。しかしその手を魏香蘭は優しく振りほどく。
「二人で逃げれば人目につきましょう。ここでお別れでございます」
魏香蘭は大粒の涙をこぼしていた。着物の裾でそれをぬぐって、蘭の花のように明るい笑顔を見せた。
「この数日は、私の人生の中で最も楽しい日々でございました。どうか王子の旅路に輝かしい前途のあらんことを――」
姜子蘭も泣いていた。そして、感情のままに魏香蘭を抱きしめると、その唇をふさいだ。
永劫にも等しい一瞬である。
やがて、二人の距離が離れると、姜子蘭は魏香蘭に背を向けた。
「私にも、この数日は幸せな時間でした。虞の王子であるということさえ忘れてしまうほどに」
顔を見せずにそう言った。その声は震えている。
「人の歩みとは、長く苦しいものです。時には立ち止り、甘美な夢に身を委ねることも必要でございましょう。ですが、いつまでも立ち止まったままではいけません」
それは魏香蘭からの檄の言葉であった。姜子蘭はもう一度だけ振り向きたいと思う自分の気持ちを律して、そのまま部屋を出た。