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春秋異聞  作者: ペンギンの下僕
王子漂泊
30/111

姜子蘭、杏邑を見る

 それからの姜子蘭は毎日のように魏香蘭と会った。

 元は魏盈のほうから、姜子蘭の妃にしてほしいと頼んだのである。その魏香蘭が気に入られたとあれば魏盈、魏仲洪としても都合がよかったので、魏盈はそれを許した。

 二人は日々、庭園で様々なことを語り合った。

 魏香蘭は植物の知識の他には音楽や詩のことを語った。姜子蘭は、巫帰にならった虞の歴史や礼制の話をした。それは魏香蘭から教えてほしいと聞いたことであり、姜子蘭が話すことを魏香蘭は楽しそうに聞いていた。

 その日も二人は庭で仲睦まじく言葉を交わしていた。まだ出会って数日の仲でありながら、すでに二人は十年来の幼馴染のようであった。

 そこへたまたま、魏仲洪がやってきた。姜子蘭と魏香蘭は礼をした。しかしその後、魏香蘭は魏仲洪に言った。


「ところで仲父上(おじうえ)。お願いがございますの」

「なんでしょうか?」


 少し眉をつり上げながらも、兄の娘に対してへりくだった態度を見せて魏仲洪は聞いた。


「車を用意してくださいな。私はともかく、王子は杏邑へ来られてひと月になるというのにまだ一度も屋敷から出たことがないのでしょう? 父上の作らせたこの庭園は天下に二つとない素晴らしいものではありますが、ここだけが杏邑ではありませんわ」

「ですが、王子が外に出られるとなると――」


 魏仲洪は難色を示した。姜子蘭のことはなるべく伏せておきたいという思惑があるからである。


「私は、どのような恰好でも構いません。自分が王子であると喧伝したいわけでもありません。ですが、香蘭どのから杏邑の繁栄を教えていただき、ぜひこの目で見てみたいと思ったのです」


 姜子蘭もそう言って頼み込んだ。そう言われると魏仲洪は答えに困った。


「ですが、城市には色々な者がおりますので――」


 苦し紛れにそう答えた。しかし魏香蘭は、敢えて尊大な態度で、


「あら、我が父上の治める杏邑に不逞の輩が蔓延していると仲父上は言いたいのですか?」


 と、詰るような眼で魏仲洪を見つめた。そういう言い方をされると魏仲洪は、そのようなことはありません、と答えるしかない。


「無論、善人ばかりでないことは私も分かっております。ですが悪人に溢れているわけでもないでしょう。まして私たちは二人きりで出歩きたいと言っているのではありません。僅か数名の悪人からさえ我らを守れぬほどに、父の兵は弱卒ばかりだと言うのですか?」


 きつい口調でそう問われては、魏仲洪は否と言えなかった。

 護衛を厳重につける、ということを条件に二人の外出を手配せざるしかなくなってしまったのである。

 そして二人は杏邑を見回った。幌つきの車に同乗して、護衛の兵士を左右に並べて杏邑の城内を見回ったのである。しかし何事もなく、魏仲洪の定めた刻限にはしっかりと帰ってきた。

 魏香蘭はとても楽しげであった。そして姜子蘭は魏仲洪に礼を言い、同時に魏盈の治世を褒めた。人々が晴れやかな顔で家業に励み、商いをし、充足した様子であるのを直に見れたことは有意義だったと無邪気に語ったのである。


 ――ひとまずは、懸念はなさそうだ。


 そう思いながら、魏仲洪は兄である魏盈にもそのことを報告した。

 魏盈は話を聞くと、目を怒らせて魏仲洪を詰った。独断でいらぬことをした、と強い口調で叱責したのである。返す言葉のない魏仲洪は、ただ伏して謝るよりほかになかった。


「香蘭も香蘭だ。王子を篭絡しろとは言ったが、余計なことをしおってからに」


 自分の娘に対しても魏盈の口舌は辛かった。

 魏仲洪は自分の行いを弁解する意図もあって、魏盈に言う。


「香蘭さまには、王子の閉塞感を解きほぐす意図もあったのではありますまいか? 我らに思惑ありと言えど、少しあからさますぎました。よほどの愚者でなければ、自分が軟禁されているということに気づきましょう。そういう警戒心を抱いて思い切った行動に出られるくらいならば、我らの目のある中で少しでもその疑念を解きほぐしたほうがよいと考えられたのではないでしょうか?」


 それは魏仲洪の本心でもあった。あまりに制限が露骨すぎると、かえって相手はこちらに疑念を抱く。ほどほどに自由を与えたほうがいい、というのが魏仲洪の意見であったのだが、魏盈はその進言を退けて姜子蘭の行動を縛っていた。


「あれにそれほどの分別があるものか。あれの母は所詮、小役人の娘に過ぎぬではないか。美貌においては私の妾姫でも並ぶ者はおらなかったが、無学である。その腹から生まれた女にそういう機微など分かるはずがなかろう」


 その言葉に魏仲洪は反論したかった。しかし、喉まで出かかった言葉を呑み込んで腹に沈めた。

 魏仲洪もまた妾腹の子である。その母は旅芸人の妓女であった。


 ――兄は暗に、私のことも侮蔑している。


 そう思うと、その怒りを買うことを恐れずに諫言するのが滑稽に思えたのである。




 魏盈と魏仲洪の間にそんなやりとりがあったなどと、二人は少しも知らない。

 翌日も、二人は変わらず庭園で語り合っていた。相変わらず、遠巻きには監視の兵士らがいる。遠目には、二人は仲睦まじく歓談しているように見えた。しかし急に、魏香蘭は姜子蘭と距離を詰めると、その体に飛び込んで姜子蘭の唇をふさいだのである。

 兵士たちは思わず目を背けた。

 姜子蘭も、急なことでどうしていいかわからず、頬を赤らめながら困惑していた。

 やがて、魏香蘭は自分の顔を姜子蘭から話すと、低い声で告げた。


「杏邑からお逃げなさい。貴方は、ここにいてはなりません」

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