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春秋異聞  作者: ペンギンの下僕
王子漂泊
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我殉虞王

 その日の夜。盧武成は老人と納屋の片隅で話していた。

 老人は范旦(はんたん)と言い、元は吃游の大店の商人であったという。吃游が顓に攻め落とされた時に難を避けて東に逃げたのだが、虢の地で虞が再興されたと聞いて戻って来たらしい。

 王畿に住む民としての誇りがあり、少しでも虞王に近いところにいたいというのが戻って来た理由だという。しかし連れて来た家人たちは乗り気ではなく、顓がやってきた時に多くが逃げ、今回の水害を前にしてついに均以外の者は皆どこかへ行ってしまったらしい。


「なるほど。それは災難だったな」


 冷たい声で言った。しかし范旦は静かに首を横に振った。


「求めるものがそこになければ人が去っていくのは道理でございます。去っていった者たちを怨むことはいたしません」

「殊勝なことだ。しかしこれからどうされるおつもりだ? 屋敷があの有様では商いを続けることも出来まい」

「それでなくとも、今の畿内には物がありませんからな。諦めて、東へ行こうと思います」


 賢明な判断だと盧武成は思った。虞王に拘りを見せてはいたが、盲信的になって現実が見えなくなるような人ではないらしい。


「だが路銀はあるのか? 東がどこを指しているかは知らないが、無銭で旅をするわけにもいかないだろう」


 そう言うと范旦は立ち上がった。そして納屋の端にある、敷き詰められた藁の下を探った。するとその中には小さな布袋があった。中には銀の粒がいっぱいに入っている。


「これだけあれば足りますでしょう。ところで、ひとつ盧武成どのにもお頼みしたいことがあるのですが」

「なんだ?」

「何かと物騒な時代でございます。老人と子供だけの旅は心もとない。護衛として同道してはいただけませんか? 無論、礼はいたしますので」


 范旦がそう頼むのは当然のことである。頭を下げる范旦には、我が身可愛さというよりも、均の身を案じている様子が見て取れた。他の家人が逃げたのに均が逃げなかったのは、子供だから事情をよく分かっていなかったというのもあるだろう。一人で逃げたところであてもなく、生きていけないということもある。

 しかし、勇気を振り絞っていつ完全に崩れ落ちるか分からない廃屋の中へ進んでいったのは、范旦の人柄を慕っているからに違いない。范旦もまた均のその行動に感謝しているので、責任を持って安全な地へ送り届けてやりたいと思っているのだろう。

 そういうことを見て取ったので、盧武成は二つ返事で引き受けた。


「道中の食事の世話さえしていただければそれで構わない。欲を言うなら馬が二頭……せめて一頭は欲しいが、その金で買えそうか?」

「さて、どうでしょう。そもそも畿内では、軍の他に馬があるところはないかと思います」


 そうか、と言って盧武成は腕組みした。

 范旦の怪我はそこまで重くはないが、老齢なのもあり、長時間柱の下敷きになっていたこともあって衰弱している。歩いての旅には耐えられないだろう。馬を買って車に乗せなければ旅にもならないだろうが、そうするための金がない。


 ――ならば、やむを得ない。私が背負って歩くか。孟申のあたりは洪水の影響で物資不足であるが、畿内を出れば駄馬の一頭くらいは手に入るだろう。


 そう一人で決めて、范旦に告げた。


「恩人に対してそこまでさせてはあまりに申し訳ない」

「俺は気にしない。体力には自信がある故、案じることはない」


 眉一つ動かさずに言うと、范旦は真面目な顔つきをした。


「ならば、私は置いていってください。均だけでもお連れください。東にある(はん)国内、智氏(ちし)の領内にある武庸(ぶよう)という城で私の息子が店を構えております。これを見せれば分かるでしょう」


 そう言って范旦は一枚の牘を手渡した。そこには、范旦の氏名と書付、そして見たこともない鳥のような形の焼き印が押してある。


「我が家の縁者であることを示すために作らせたものでございます。関門を通る際に身分を示す役割もありますので、これさえあれば問題なく武庸に入れるでしょう」

「なるほど。事情は分かった。しかし、范旦どのはここに残ってどうなさるおつもりだ? 生きる手段があるようには見えぬが」

「考えていることはあります。その話は、また明日にでも」


 そう言って范旦はもう寝ようと勧めた。

 盧武成にしても疲れていることには違いないので、敷き詰められた藁を寝床にして眠りについた。

 そして次の朝。何者かに体を揺さぶられて目を覚ました。何事かと思って目を開くと、均がぼろぼろと泣きながら盧武成のほうを見ている。


 ――まさか。


 跳ね起きた盧武成は范旦の姿を探した。それはすぐに見つかった。

 范旦は、納屋の入り口で首を刎ねて自害していたのである。倒れている横の壁には、これも指を切って書いたのであろう。血文字で、『我殉虞王』と記されていた。

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