見敵見己
呉西明は盧武成との手合わせに完敗したことで、盧武成に心酔した。そして師匠と呼び、武術の手ほどきをして欲しいと頼み込んできたのである。
特にこの先のことを決めていなかった盧武成はその日から呉家の賓客となり、呉西明に稽古をつけることになった。
時には杏邑の自警団の詰所で、時には呉家の邸で呉西明に剣や棒術を教えていたのである。
するとやがて、自警団の若者や呉家の門番らも盧武成に教えを乞うようになってきた。世話になっていることへの感謝もあるので、盧武成は自分に出来る範囲で彼らにも武術の手ほどきをした。
「敵に勝とうと考えすぎれば、敵しか目に入らぬ。敵を恐れれば、恐れが体を支配する。自分の技量に自信を持てば自分の動きしか考えつかぬし、敵の実力を過分に見てしまうと、敵がどう動くかばかりを気にして咄嗟に動けなくなる」
盧武成は呉西明にそう教えた。
「では、戦う時には何を見て何を考えるべきなのでしょう?」
盧武成の教えは難しく、呉西明は聞いた。
「敵と己だ。ただし、余計なことを考えてはならない。戦いなのだから敵に勝たなければならないのは当然のことである。死を恐れるのは人の性であるが、そういうことを考えてはいけない」
「では、自分の動きしか考えつかぬこと、敵の動きを気にしてしまうのがいけないというのはどういうことでしょうか?」
「そのことが悪いと言っているわけではない。そのどちらかしか見えなくなってしまうといけないと言っている。自分の思惑に反して相手が動くこともあるし、当然ながら敵が仕掛けてきたのであればこちらも何かしらの対処をしなければならない」
盧武成の言うことは、言ってしまえば当たり前のことである。しかし、それを実際に戦いの中で為すのは困難なことでもあった。呉西明も、そういう顔をしている。
「そこは場数を積むしかない。一朝に強くなれる方法などこの世にはないからな」
そう教えながら盧武成は、姜子蘭に稽古をつけた時にも同じようなことを教えたな、と思い出していた。
――そう言えば、あの世間知らずの王子は今ごろどうしているだろうか?
そんなことを考えはしたが、すぐに心の中で首を横に振った。
もう盧武成には関わりのないことである。
そうしてひと月が過ぎた。
呉西明はいよいよ盧武成のことを尊敬しており、呉家の家人や自警団の者たちからも師匠と仰がれて盧武成は段々と居心地が悪くなってきた。
――長居をしすぎたかもしれない。
盧武成は十五の齢に故郷である尤山を出て旅を続けてきた。それは行く当てがないということの他に、人付き合いというものを苦手としているからというのもある。
おそらく自分は誰かに雇われたり、誰かと友誼を結ぶといったことが得意ではないのだ。尤山にいた頃には、父以外の相手と話すことはなかったし、その父にしても、必要なことは教えてくれるが、それ以外の時には決して口数の多い人ではなかった。
だいたいからして、盧武成を養育するために山に籠りきっていた人である。他人との関わり合いが嫌いか苦手かのどちらかであるに違いがない、と盧武成は思っていた。そして自分もそういう父に似たのだろう思っている。
だからこそ、他人に慕われるという現状にどうにも落ち着かないものを感じていた。
そろそろ暇乞いをしようかと考えていた時に、不意に呉展可に酒に付き合ってくれと誘われた。断る理由もなかったので盧武成はその誘いを受けた。いい切っ掛けになるかもしれないとも思ったのである。
その日は、蒸し暑い夜だった。月が玉のように白く輝いている。
呉家の邸にある楼の上に上ると、そこに呉展可が待っていた。楼上には盃が二つある。一つは空だが、もう一つは呉展可の手の中にあった。どうやら呉展可は盧武成が来るよりも先に始めていたらしい。
「おう、武成どの。悪いが先に始めているぞ」
呉展可は豪気に笑っている。お気になさらず、と盧武成は不愛想に返した。
そして呉展可の対面に座ると、酒瓶を手に取り盃に注ぐ。
「それで、いかがいたしましたかな? 突然酒の誘いとは?」
「うむ。そのことなのだがな、武成どのよ。おぬし、このまま我が家の家人になるつもりはないか?」
盧武成にとっては慮外の申し出である。
しかし、心が揺らいでいた。これまで当てもなく大陸をあちこちと自由闊達に旅してきたが、そういう生き方もいつまでも出来るわけではない。そろそろ、どこか一か所に腰を落ち着ける、ということを考えるべきなのかもしれないという気持ちもあった。
「といって、無論、帳簿の計算や商談をしてくれと言っているわけじゃない。あんたはそういうことには向かんだろうさ」
「ええ、まあそうですな」
「しかし武成どのはとにかく強い。商人は信頼を一義とする。特に我ら、水運を行う者にとっては、預かった品を届け、買い取った品を持ち帰ること。これこそが第一である。黄河の上を滑らせる船に我が家の命運があるのだ。その船上に貴方のような勇者がいれば、これほど心強いことはない」
呉家の用心棒として商船に乗り込み、大陸の東西を黄河に沿って往来する。そういう自分を思い浮かべて、悪くはないかもしれないと盧武成は思い始めていた。
「特に、これから暫く杏邑あたりも物騒になってきそうなので、なおさらに強い人物は欲しい」
「物騒になりそうというと――戦が起こるかもしれない、ということですか?」
呉展可は静かに頷いた。