呉西明、盧武成に挑む
その頃。姜子蘭の旅を助けた旅人――盧武成は、杏邑の一角にある豪邸の中にいた。
盧武成がいるのは杏邑でもきっての水運業の商人である。その邸宅の広さは范氏のそれに劣らぬ大きさであった。
盧武成の対面には、日に焼けた浅黒い肌をした、髭の濃い壮年の男が座っており、豪放磊落に笑い、大盃をあおっている。この屋敷の主人である呉展可だ。
「ははは、いや――范旦どののご子息が気に入ったというのよくわかる。武骨で不愛想ではあるが、まこと善き男であることは分かるぞ。まったく、俺に男子しかいないというのが口惜しくてならん」
呉展可はそう言って盧武成を絶賛していた。
しかもその横では、呉展可の次子である呉西明が酒瓶を手に盧武成の横にいる。呉西明もまた上機嫌であった。
「盧武成どのが打ち倒されたあの魯剛という男は、実に悪辣な男でございましてな。しかしながら魯剛とその部下は屈強であり、被害にあった者らも魯剛の報復を恐れて訴えでることはしませんでした。しかし盧武成どのは、彼奴らを一人で、しかも素手で倒された。次にはぜひ、私とも手合わせをしていただきたいものです」
上質の酒と、数多の膳で歓迎されている当の盧武成は――眉間にしわを寄せ、ほとんど口を利くこともなく無愛想に出された酒を口に運んでいた。
――おかしなことになった。
という気持ちはある。
賭場で騒動を起こし牢中の人となったかと思えば、今は杏邑で一番の商人の邸で歓待されている。
范玄の書簡が盧武成らに便宜を図ってくれという推薦状だったとは考えもしなかった。そして、そういったこととは関係なく、どうも気に入られてしまったようだと感じていた。
「手合わせですか。お望みとあらば今からでも構いませんが」
言葉は丁寧に。しかし表情を変えずに盧武成は言った。呉西明は難色を示した。
「今、ですか。お気持ちは嬉しいのですが、私も盧武成どのも酒を過ごしておりますぞ」
「武術とは身を守り、敵を打ち倒すために行うものです。今この時、不逞の輩が襲撃してきたらどうなさいます? 酔っている故、酒精が引くまで待ってくれと頼むのですか?」
盧武成は意地の悪いことを言った。しかしその言葉に呉西明は、滝に打たれたように目を見開いた。
そして、お願いいたしますと拝謝して頼んだ。
そして二人は庭に出た。宴席の場には呉展可、呉西明の他にも何人かの家人がいたが、二人の戦いを観戦しようとして庭のほうへ向かう。呉展可などは酒瓶と盃を手にしている。二人の戦いを肴にするつもりであった。
互いに武器を取ることになり、呉西明は棒を、盧武成は木剣を選ぶ。
呉家の家人たちの視線は盧武成に向けられていた。魯剛とその部下たちは杏邑では有名な荒くれ者であり、それを一人で倒したという盧武成の実力が気になっていたのだ。
しかし一方で、呉西明の実力も呉家の者らは知っている。
呉西明は豪商の次男でありながら家業を手伝おうとはしない。といって道楽をするわけでもなく、ひたすらに荒事を好んだ。故に兄である呉代とは折り合いが悪かったが、呉展可は呉西明のそんな気性も愛していた。
そして呉西明は喧嘩なれしているだけのことはあり、杏邑でも一目置かれている。城内の悪漢も呉西明と彼の率いる自警団を見れば目を合わせず、悪さをやめるほどだ。
そんな二人が手合わせしようとしている。呉家の者らは固唾を吞んでその様子を見つめていた。
呉西明は棒を両手で持って、腰を低く落として警戒した。
一方の盧武成は木剣を右手一本で持って、だらりと腕を投げ出していた。敵に対する警戒というものがまるで見えない。
そうしたまま、二人は動くことなくその場でじっとしていた。
家人たちは、二人とも酔いが回って動けないのではないだろうかと声を殺して話している。しかし当の二人――少なくとも呉西明は、対峙したその瞬間に酔いなどはどこかへ消えてしまっていた。
――打ち込む隙はいくらでもある。しかし、そこに向けて攻撃しようとする行為が、まるで虎の巣に飛び込んでいくかのように恐ろしく感じられるのは何故だ?
呉西明の持つ棒のほうが得物としての長さがある。間合いという点で有利を取っているにも関わらず、軽々に踏み込むことが出来なかった。
一方の盧武成も、迂闊に打ち込んでこない呉西明を見て、
――ただの喧嘩好きではないな。
と、気を引き締めた。呉西明の見立て通り、盧武成は敢えて隙を作って打ち込ませようとしている。しかしその隙に隠した罠まで呉西明は見抜いた。完全ではないが、何かがあると警戒している。
だが呉西明はどう攻めるか考えあぐねているようであり、それならば、と盧武成は駆け出した。
高く剣を振り上げる。そのためにがら空きになった胸めがけて呉西明は突きを放った。空を切る音がしたが、しかし盧武成は左にとびすさって躱すと、そのまま呉西明の肩めがけて木剣を振るう。
木と木がぶつかる乾いた音が響いた。
あと少しで盧武成の木剣が届くというその前に、呉西明は棒を横に薙いだ。狙いは盧武成の首であり、盧武成は咄嗟に木剣を振るってその一撃を防いだのである。
しかし安堵したのもつかの間。
呉西明が一度下がって体勢を整えようとしたその時に、盧武成の剣は、いつのまにそうされたのか分からぬうちに、優しくその首に当てられていたのである。