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春秋異聞  作者: ペンギンの下僕
王子漂泊
25/111

不求利己、唯因義佑我

 姜子蘭は与えられた部屋にいながら、落ち着かない心地でいた。

 それまでの姜子蘭は、王子でありながら一室を与えられているのみで、食うに困ることはなかったが巫帰という宦官一人しか世話役のいなかった。

 そういう暮らしが当たり前であり、それに慣れていたので現状はかえって居心地が悪かったのである。

 気を紛らわすためにも、剣の稽古をすることにして、盧武成との訓練の時に使っていた自作の木剣を取り出す。

 この部屋は広く、剣を考えなしに振るっても家具や装飾を傷つける心配はない。

 盧武成からの教えを頭の中で反復しながらひたすらに剣を振るっていると、訪問者があった。

 姜子蘭は慌てて剣を鞘にしまってその相手を迎える。姜子蘭のもとを訪れたのは魏仲洪であった。

 汗だくになり、体を火照らせている姜子蘭を見て魏仲洪は、


 ――さっそく、侍女の一人にでも手を出していたのだろうか。


 と思いながら部屋を見回した。もしそうであれば都合がいい。姜子蘭を世話する侍童侍女は、敢えて見目のよい者を揃えてある。好色であるならばそこにつけいって虞の内情を探ることが出来るという考えからであった。


「失礼いたします、王子」


 魏仲洪は姜子蘭の様子には触れることなく、恭しい態度で聞いた。

 姜子蘭は、はずかしいところを見られた、というような顔をしながらも着座を促す。


「貴殿は――魏仲洪どの、でよろしかったでしょうか」

「はい。ですが、王子から見れば私は陪臣のそのまたさらに陪臣でございます。どうぞ気安く、魏信(ぎしん)とお呼びください」


 信というのが魏仲洪の諱である。

 諱を読んでよい、とへりくだることで姜子蘭に気をよくさせようとした。しかし姜子蘭は険しい顔つきをした。


 ――阿諛は嫌いな人か。


 魏仲洪はそう思った。

 しかし姜子蘭は、


「軽々にそのようなことを申されますな。私は虞王の子とはいえ、末子であり何の官も持たぬ身です。そのような者に下手に出られますと、御身だけにとどまらず魏中卿を貶めることになりましょう」


 と、諭すように言った。その言葉の中には、過度に気を遣わなくてもいいという姜子蘭の思いやりもある。


「これは失礼をいたしました」


 魏仲洪は相好を崩した。それは姜子蘭には親しみの笑みに見えたが、魏仲洪にとっては、いかにして与するかという糸口を見つけたという陰険な笑みである。


「どうにも私は昔から卑屈な性格でございましてな。その卑屈さがかえって苛立つ、と兄からもよく言われております」

「いいえ、私は何も怒ってなどはおりませぬ。むしろ、若輩の身で偉そうに意見など致してしまい申し訳ありません」


 陰のある笑みを浮かべた魏仲洪を見て姜子蘭は慌てた。


「いえ、むしろそう言っていただいたことに感謝いたしております。我が振る舞いが私を貶めることには問題はありません。ですが、それが兄の品位さえ下げてしまうとなれば人臣としてこれを越える不徳はございません」

「そのようなことを仰ってはいけません。仲洪どのは魏中卿の補佐役であらせられるのでしょう。その重用こそ魏中卿からの信頼の証でありましょう」

「いいえ。魏氏の領内における差配はすべて兄が行っております。私が補佐役にあるのは、下手に臣下や外戚にその地位を与えることを恐れているからにすぎません」


 人の上に立つ者は、誰に権力や地位を与えるかということに頭を抱える。それがあるべき姿であり、そこを軽率に決める者に先はない。

 それは単純な能力だけに限らず、氏族や立場によっても変わる。下手に他氏の者を擢登するより、とりあえず身内で固めるというのは無難な手段であると言えた。


「兄は兄弟の中で一番優秀であり、私は一番無能でした。今も――有体に申せば、大した役にも立たぬのだから自分がいかに顓を倒すかを考えている間、せめて王子のご機嫌うかがいでもしておけと命ぜられたが故にこうして参ったのでございます」


 そのように言われて姜子蘭は困ったような顔をした。魏仲洪になんと言葉をかけていいかわからなくなった。

 無論それは魏仲洪の策略であり、あえて困らせるような卑屈な態度を取ったのであるが姜子蘭はそのことに気づかない。そして、黙り込んでいるのをいいことに魏仲洪は言葉を続けた。


「王子は末子でありながら、虞王朝の命運をかけた使者として虞王に信任されておられます。もし私に王子の才幹、勇気の半分でも備わっておりますれば兄の援けになれたかと思うと、不才な己が憎らしくなります」

「そう卑屈になられてはいけません。それに――私が勅使に選ばれたのは、きっと、私が死んでも構わないような子だからなのです」


 今度は姜子蘭が表情に翳りを見せた。


「私には兄が三人おりました。しかし、次兄は病で死に、三兄は顓の兵士と諍いを起こして殺されました。今の虞には人がおらず、されど太子たる長兄を外に出すわけにはいかぬが故に私を魏中卿の元に使わせたのでございましょう」


 その言葉を聞いて魏仲洪は心の中でほくそ笑んだ。

 一番知りたかった話が聞けた。しかも、姜子蘭の様子を見るにその言葉は真実であろうとも確信した。

 その成果に満足しながらも、ここで頷いては露骨であると思い、姜子蘭を励ますような言葉をかけることにした。


「そのようにお考えなさいますな。王子の使命は虞王朝の命運を左右するものであり、それを為しとげられた王子は智勇の人でございましょう。虢から杏邑までの道のりを、襤褸を纏いながらも単身で踏破なさったのです。これを偉業と呼ばずしてなんと言いましょう」


 これは魏仲洪の本心であった。

 その内実は、人知れぬ山野で野垂れ死ぬことなく勅書を届けてくれたことへの皮肉交じりの感謝もあったが、しかし姜子蘭という少年の虞王朝への熱意を素直に称える心もあった。

 だが姜子蘭は遠い目をして、魏仲洪の言葉を否定した。


「私は一人でここまで来たのではありません。ある旅人に助けられてどうにか杏邑までたどり着いたのです。しかもその人は、己の利を一切求めず、ただ憐憫をもって私を助けてくれました」


 そう語る姜子蘭は、昔日を懐かしむような遠い目をしていた。

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