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春秋異聞  作者: ペンギンの下僕
王子漂泊
24/112

北面東面之礼

 西に座る姜子蘭は、まず北に向かって頭を下げた。

 次に東に向かって頭を下げた。そして、顔を上げた。

 その次には、魏盈が北に向けて頭を下げ、一度頭を上げると姜子蘭に向かって頭を下げる。ここまでの手順がこの座席配置、北面東面の礼と呼ばれる場での作法であった。


「虞王の第四子、姜堅(きょうけん)(あざな)を子蘭と申します。樊の中卿であらせられる魏氏に対して不意の来訪をしたことをお許しいただきたい。そして、お会いいただいたことに感謝いたします」


 姜子蘭は滔々と語る。魏盈に対し敬意を示しつつも堂々としていた。

 それに、北面東面の礼の作法についても知っている。この作法は魏盈も知らないものであった。しかし魏盈は、魏仲洪に教えられた通りの手順を姜子蘭が示したので、


 ――あるいはこの王子は本物やもしれん。


 と思い始めた。

 そして姜子蘭は、ここからは敢えて胸を張り、懐から小箱を取り出した。中には文字の書かれた布が入っている。


「虞王からの勅を持ってまいりました」


 そう言って姜子蘭は勅命を読み上げる。

 魏盈は再び伏した。


「『我が父に罪あれど我に罪なし。然るに顓戎、虞を侵し朕を恫喝す。玉座は累卵の上にありて天子は明日も天子であるか定かならず。されど朕は樊伯の挙を忘れた日なし。今、朕の曇天の御代にまだ鋭気の失われざるは、乃ち東に樊あればなり。直ちに兵を挙げて顓を(はら)うべし』」


 魏盈は謹んで姜子蘭の言葉を聞いていた。

 そして、恭しく一礼して姜子蘭から勅書を受け取った。


「魏氏よ。貴殿にも事情はござろう。されど、虞王は今も穏やかならぬ宸襟で春秋を過ごしておられる。どうか起って頂きたい」

「勿論でございます。私は不才の身ではございますが、虞の武王から分かれし樊国を支える臣でございますれば、虞王は天日(てんじつ)に等しき存在です。この魏葦(ぎい)、不肖ながら虞王のために砕身させていただきましょう」


 ちなみに魏葦とは、魏盈の氏名である。葦というのが魏盈の(いみな)であり、盈とは(あざな)なのだ。他人の諱を呼ぶことが許されるのはその者の親か君主だけである。そして臣下である身分の者は君主と相対する時に自らの諱を名乗ったり、諱を一人称として使うこともあった。

 ともかく、魏盈が勅書を受け取ってくれたことで姜子蘭は胸を撫でおろした。

 これで魏盈は顓を倒すために兵を挙げ、虞王朝は救われるだろうと素直な心で信じたのである。

 故に、勅書を受け取った時の魏盈が欲望に満ちた毒々しい笑みを浮かべていたことにはまったく気が付いていなかった。




 勅書を受け取った魏盈は、姜子蘭を賓客として歓迎した。

 豪華な一室を与え、侍童と侍女を十人ずつつけ、さらに常に五名のえりすぐりの兵士をつけてその身辺を守らせたのである。

 そのころ魏盈は、勅書を前にして魏仲洪に諮っていた。

 勅書には天子のみに許された印字――玉璽(ぎょくじ)が押されており、もはや姜子蘭が虞王の王子であり、この勅書が本物であることに疑いはなかった。

 問題は、ここから動くかということである。

 魏盈はひとまず、姜子蘭を歓待するべしという魏仲洪の勧めに従った。


「これは公の勅使ではございません。礼遇するということにして部屋の一室に留め置き、都合が悪くなればいつでも殺しておけるようにしておきましょう」


 それが魏仲洪の言い分である。魏盈もその方針に文句はなかった。


「うむ。しかしそれは最後の手だ。この勅書一つとっても、我らの下に届いたことは僥倖と言える。しかし勅書だけがあるというのもおかしな話だし、どういう風に使うにしても虞の王子という御旗があればいっそう価値はます」


 魏盈は既に、そういった利己的な廟算をしていた。

 使いようによってはこの勅書は大きな利益を生む。魏氏が樊で正卿になることも夢ではないかもしれない。しかしそれだけに慎重にならなければいけなかった。


「とりあえず、すぐに動くことはなさいますな。まずは確かめなければならないことがございます」

「なんだ?」

「智氏と維氏。そして樊伯にも密使が送られていないかということです」


 魏盈は冷や水を掛けられたような顔をした。

 だが魏仲洪の言うことは最もである。

 姜子蘭は第四王子であり、三人の兄がいることになる。今の虞王の近況については魏盈も性格な情報を得られてはいないが、年若い第四王子が国外に密使として出ているとなれば、他の三人の兄の中にも密勅を携えて他国に奔っている者がいるかもしれない。

 虞王が魏氏だけに勅命を授けたのか。それとも、樊の三卿すべてに勅使を送ったのか。

 その実情次第で魏盈の持つ勅書の価値は変わってくる。


「まあ、まずは私から子蘭王子に話を聞いてみることにいたします。あの王子は弱年ながら王室の血にある威風を携えてはいますが、純朴で政略や陰謀といったものが得意とは思えません」


 魏仲洪は笑っているが、その裏に蜂の針のような鋭さが隠されていた。

 しかし、だからこそ頼りになる。魏盈は短く、まかせた、と言った。


「それともう一つ。智氏と維氏の領に密偵を出すことをお許しいただきたい」

「ああ。そちらも任せる。おぬしの裁量で行うがよい」


 その許可を得ると、魏仲洪は一礼して部屋を去った。

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