勅書の陰謀
子狼たちは明け方すぎまで軍謀を続けていた。
ようやく東の空が白み始めてきたころ、外の風を浴びようと子狼が帷幄を出ると、喚声に耳朶を叩かれた。向かうとそこでは、姜子蘭と顓行とが剣を振るっていたのである。傍らには盧武成と共羽仞が師として立っていた。といっても共羽仞は瓢箪を片手にしているので、実際に二人の剣筋を見ているのは盧武成一人である。
さらにその横では、呉西明と趙白杵が棒術の稽古をしている。稽古とはいうが、ほとんど趙白杵が一方的に呉西明を攻め立てていた。
「朝から精が出ますな」
子狼は、やや眠気混じりの声を姜子蘭に向けた。
「うむ。どうにも気が逸ってしまってな。それに、子狼たちが寝ずに策を考えていると思えば、いつまでも寝てはいられないさ」
「戦陣に立ち、槍働きをする人にとっては、休息も必要です。私は剣刃に身を晒さぬ故に、寝食を疎かにして構わぬのでございます」
実際に子狼は、まだ維氏にいた頃から夜通し策を練ることはよくあった。そのため、子狼にとっては慣れたものだが、顓遜と肥何は眠りについてしまった。特に老齢の肥何には堪えたようである。
「ところで我が君、暫し武成を借りてかまいませんかな?」
「私はいいが……」
盧武成としても問題はないので、後のことを共羽仞に頼もうとした。しかし共羽仞は目を細めて、
「俺の剣は隻腕のためのものだから、人の稽古を見てやるのには向かん」
と、すげないことを言って断った。本心なのか、面倒故に口実をつけたのかが読み取りにくい声である。
仕方なく盧武成は、二人に簡素な素振りだけをさせて、子狼とともに場を離れた。
二人は馬に乗りこむと、陣を離れて少し駆けることにしたのである。その中で、子狼が聞いた。
「なあ武成。お前、何か史氏の縁者であることを示すようなものは持っていないか?」
「いきなりどうした?」
「この先、我らが首尾よく顓族を追い払えた時に、必要になるかもしれん。お前が血筋や身分というものを嫌っているのは承知しているが、我が君の御為だ」
姜子蘭のため、と言われると弱いのが盧武成という男である。そして、苦々しい顔をした。
「一応、あるにはあるぞ。父に無理やりに持たされた」
そう言って盧武成は懐から、手のひらに収まるほどの大きさの鉄製の札を取り出した。そこには、“史氏文之子錬”と刻印されている。札には紐が付いており、そちらには、三寸(九センチ)ほどの印璽があった。札は盧武成の父、史文が作らせたものであり、印璽は史氏累代に伝わるものであるらしい。
ちなみに盧武成の語る父とは、養父たる盧靂胥のことである。盧武成としてはこのようなものを持つこと自体が気に入らないらしく、顔と声に不服が滲み出ているが、その氏を名乗るほどに尊重している養父の意向を無碍には出来なかったのだ。
そして、盧武成の言葉を聞いて子狼は安堵の息を吐いた。しかもその顔というのが、北扇陣を終えた時に比するほどの、心からのものであったので、盧武成は眉間を狭めて子狼を睨む。
「何をそうまで懼れているんだ? 俺の素性など、誰がありがたがるというのだ」
「お前は、地位や家格というものを厭うのはいいが、少しは俯瞰して見ることを考えろ。少なくともこの世に一人、絶対に史氏の子を無碍に出来ぬ人がいるだろう」
「ああ、虞の天子か?」
盧武成の父、史文はかつて、東遷の際に吃游に留まって奮戦し、今の天子を虢に逃すための刻を稼いだ忠臣である。虞の滅亡から今日まで天子が玉座に身を置けること、すべて史文の功であるといってよい。
そう考えて、盧武成は慄然とした。子狼の態度を鑑みたときに、盧武成は最悪を想定してしまったのである。
「よもや、天子が敵になるなどと言いはしないであろうな?」
「――そうなるやもしれぬ、と言っている」
子狼は声を殺していった。陰黠たる策略を平然として駆使するこの男でも、実際にその危殆の端を見て取ると、やはり多少は動揺というものを見せた。
「……お前がそう思う根拠はなんだ?」
盧武成としては、天子というものを畏れることも、敬うこともない。しかし姜子蘭の宿願が天子の救出であり、その端は密勅から始まっている以上、不遜を貫くことは出来ないでいる。
「おそらく、茨国が動いたのは密勅によるものであろう。隠し通路の露見を防ぎたいというのは分かるが、密使を外に出さねば何も進まぬのだからな」
「待て。そうなると我が君は――」
「茨国に確実に密使を送るための陽動として東へ奔らされたのではないかと、俺は見ている」
それはどこまでも、子狼の推論でしかない。しかしそう語られると、腑に落ちるものがあるのも事実である。
姜子蘭には存命の兄がいる。虞王の本命が茨国であるとすれば、その兄を南へ奔らせ、囮として季子の姜子蘭を使った。そうかもしれぬと、盧武成も思ってしまったのである。
「そういえば、そもそも我が君の持ってきた密勅自体、陰謀やもしれぬと、お前は疑っていたのだったな?」
かつて、維氏の領を出てすぐの頃に子狼は、その文面から、樊国の擾乱を誘うためのものだと推察していた。
「ああ。おそらく虞王は、我が君を捨て石とし、そして、幸甚にして密勅が東に届けば、樊国の擾乱を餌に顓族の目を東に向けさせることで、茨国による急襲をより確実なものにせんと目論んだのであろう」
子狼は口にしたことは、それが真実であるとすれば、途方もない陰謀である。
それが真実であるとすれば、盧武成の血筋という楯を備えておきたいという子狼の心情も十分に理解できた。
「こればかりは俺も、自分の考えが見当違いの愚行だったと思いたいがな」
「まったくだ。賢人にも千慮に一失があるというが、お前が今語ったことがそうであればよいと、心から思うぞ」
軍師とその朋輩とが、姜子蘭の才幹というべき子狼の誤謬を祈っている。確かにこれは、姜子蘭の前では出来ぬ話であった。
ともかく、すべき密談を終えたので引き返そうとしたその時に、数騎の一団が二人の前に躍り出た。
その先頭を走る男は盧武成や子狼と同じくらいに年若く、群青色の狩衣を着た色白い端麗な顔の青年であった。男は、二人を見ると馬を止めて、聞いた。
「――もしや貴殿らは、虞の第四王子の臣の方々でございますか?」
そう言われて、盧武成は剣柄に手を掛けようとした。しかし、子狼が手でそれを制し、男に誰何する。
「私は茨子の臣――茨国令尹、敖虎という者でございます」
勅書についての文言や謎についての話は72話「勅書の謎」でしております。もしよろしければ読み返してみてください。
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