秘密の経路
子狼が虢に脱出路があると断定したのには理由がある。
姜子蘭が虢を抜け出すのに、正面から門を突破することは難しく、故にそういったものがあり、使ったのであろうと推測したのだ。
しかしこのことについて、子狼の見解は外れていた。
「私は、通行の牘を偽装し、従者とともに門を越えたよ。もっとも、すぐに露見し、追われることとなってしまったがな」
姜子蘭の声に、わずかの哀しみが込められた。その従者というのが、姜子蘭の傅役である巫帰という人であり、そして既に故人であることを知る者は盧武成だけである。
「我が君は、その経路を使われなかったのですか? ならば、どこで知ったのです?」
「……その従者が教えてくれたよ。兵を連れ、虢に帰ることが叶えば、兵と共に城市に入り天子をお救いすることも出来るやもしれない、と言ってな」
まさに今、そのような状況になっていることを思えば、巫帰の先見は正しかったということになる。
「何故、我が君が先に虢より出られる際には、その道を使われなかったのです?」
盧武成が聞いた。当然の疑問である。
「もし私が使うことでそれが顓族に知られては、二度と使えなくなってしまう。天子の都城に備わるものなのだから、それは天子の苦境をお救いするために使うべきであろう」
「それは……そうかもしれませんが……」
「それに、あの時に追われて、無我夢中で逃げたからこそ、武成との縁が出来たのだ。あの時の武成にとっては甚だ迷惑だったであろうが、天と父祖とが私を佑けてくださったものと思っているよ」
姜子蘭は、青い眼を輝かせて笑っている。臣従した今となっては、姜子蘭のために一命を賭す覚悟の盧武成であるが、まだ旅人であった時の自分にとって、いきなり懐に転がり込んできた虞の王子というものを疎む心も確かにあったので、その胸中は複雑であった。
少なくとも、その雑多な心境を紐解いて語る口舌の巧みさを持たぬ盧武成は、
「……左様でございますな」
と、当たり障りのない言葉を返すしかない。
盧武成は気まずくなって、子狼のほうを見る。しかし子狼のほうはと言うと、姜子蘭を称道するでも盧武成を揶揄するでもなく、腕を組んで何やら沈思していた。
「どうした、子狼? 虢への隠された経路をどう使うつもりか、まだ考えていなかったのか?」
小声で聞かれて、子狼は、ああ、と声を漏らした。それから、姜子蘭のほうを向きなおる。
「我が君。虢への径路のことは、重大なことと承知いたしております。その上で、どうか偵者の一人に教えることをお許しいただきたい。我が君が用いたことがないのであれば、どれほどの兵を一度に入れることが出来るのか。そして、現存しているか、顓族に露見しておらぬかということまで調べねばなりません。策にどう用いるかは、安全を担保した後に決めることにございます」
子狼はどこまでも慎重である。しかし、それこそが兵を率いる者の責務であると分かっている姜子蘭は、頷いた。そして密かに夏羿族の偵者である羊を呼び、姜子蘭と盧武成、そして子狼のみを立ち会わせて、知り得る限りのことを伝えたのである。
羊はすぐさま馬を走らせた。一夜のうちには戻ると語ったので、三秧軍の足はここで一度止まった。
ただし、手を拱いているだけではない。
羊が虢に走った間にも、顓族と茨国の動向は、走らせた偵騎から続々ともたらされているのである。子狼、肥何、顓遜ら軍師たちはその報告を総攬し、向後の方針を考えていた。
「やはり、茨国の兵は真っすぐに虢へと北進しているようですな」
「顓公も、わずかな守兵を残して軍を出したとのことです」
「そうなると両軍の争いが起きるのは――濮野の地、でしょうか?」
濮野とは、阜関と虢の間にある平野である。両軍ともに大軍を有して戦うとなると、会戦が開かれる地は自然と絞られてくる。濮野はやや虢の地に近いが、他に、大軍を闊達に広げて戦える地は、阜関と虢の間にはない。
「懸念はもう一つあります。茨国が孟水を遡行して、滎倉を突く恐れはないでしょうか?」
そう聞いたのは顓遜である。孟水とは黄河の支流の一つであり、その流れを辿っていけば、滎倉の近くに出るのだ。茨国は二万という大軍である。兵站を確保すべく、兵廠を掌握せんとすることは充分にあり得た。
しかも、三秧軍が滎倉に残してきた兵は千ほどであり、しかも半分が負傷兵である。もし茨国がここに三千でも兵を割いてこられては、防ぎようがない。
肥何としては、そうならぬように、一刻も早く決着をつけるしかないと考えている。顓遜の懸念はまっとうなものであるが、今の三秧軍にはとにかく兵が足りないのだ。
しかし子狼は、
「孟申に五千の水兵を潜ませてあり、茨国の水軍が来れば、迎撃する備えがあります」
と、地図を見たまま言った。ちなみに孟申とは、孟水の半ばにある町であり、かつて盧武成が范旦、均と邂逅した地でもある。
肥何と顓遜は、子狼の言葉に思わず首をかしげてしまった。それだけの兵を動かして、二人が知らぬということはあり得ない。それ以前に、子狼は水兵と言ったが、北地の民から成る三秧軍には水戦を得手とする兵などいないのだ。
「水兵とは、語義の通りにございます」
子狼がそう説くと、顓遜はそれで意を解した。やや遅れて、肥何も頷く。
「今、我らが喫緊で決めるべきは、濮野で衝突するであろう顓族、茨国に対し、我らがどう動くかにございます」
その言葉に、肥何と顓遜も、子狼と同様に地図に視線を落とした。




