放蕩の君主
二万という大軍が、南方より虢を目指し進軍してくる。その報せを聞いて、三秧軍の将たちは騒然とした。
子狼だけでなく、歴戦の将たる肥何も、顔に焦りが見える。
阜関を落とし、虢を目指しているということは、顓族と対立していることになる。といって、その思惑が見えない以上、同じ敵を持つ者同士で合力できるかもしれぬとは思わぬほうがよい。茨国が顓族を斃した後、そのままの勢いで刃を三秧軍に向けてくることもあり得る。
また、顓族を破ったとて、その後、虢で虞王をどうするつもりかもわからぬのである。
「……天子は、いかなる宸襟であろうか」
姜子蘭は、かすれそうな声を出した。
騒然とした場であるが、そこに一人、場違いな、どこか気の抜ける声をあげた者がいた。趙白杵である。
「茨国ってのはどんな国なんだ?」
趙白杵としは素朴な疑問であり、そして、将兵ともに強いのであれば戦いがいがありそうだ、という想いもある。しかしその言葉を聞いて、子狼は顔に笑みを作った。
「そうですな。戦いというのは、何におきましても、先ずは敵を知ることでございます。実は、恥ずかしながら私も南方の情勢には疎いのですが、確か盧氏はかつて、南を旅しておられたのでしたな?」
流暢に言葉を並べつつ、僚将たる盧武成のほうを見る。この剛将は、茨国北進と聞いても狼狽することはなかったが、代わりに、今まで一言も言葉を発することもなかった。しかし子狼に振られると、姜子蘭のほうを見る。
「私が彼の国を旅していたのは、四年ほど前のことでございます。今の茨国の内情までは分かりませんが、それでもかまいませんか?」
「ああ、趙氏と子狼の言う通り、今は、分かることならばなんでもいい。教えてくれ、武成」
主君に請われて、盧武成は一通り、茨国についての歴史を語る。南方の国であり、元は虞の列国ではないこと。そして、金品を以って爵位を買い、今は子爵の国であること。また、諡号や官職などは虞の制度を取り入れつつも、独自のものをも取り入れていることも話した。
「そして、国土は温暖にして、東西に横たわる長江という水運を有する、肥沃豊饒の地でございます。その地に住まう民の性情は勁烈であり、戈矛を取れば勇猛です」
「軍制、というものはありましたか?」
肥何が聞いた。虞が蛮狄と蔑視する諸族は、代わりに勇敢であるというのは共通している。しかし茨国は、南の蛮族でありながら、子爵を得て、虞に倣っているとのことであった。北地で長年、北狄の諸族と関わってきた維氏の宿将たる肥何は、空恐ろしさを感じたのである。
――北狄にとって虞の圏内とは、奪うにしろ、和すにしろ、利を殖やすための対象でしかなかった。しかし、南蛮とは、強掠の他に人智らしきものをも有しているらしい。
予断を挟まぬように、肥何はつとめて冷静に盧武成に聞いた。しかし既に、その背は冷や汗がにじみ出している。新たに現れた茨国の軍は、実は顓族などよりもよほど怖ろしい敵であるように感じられてならなかったのだ。
「仄聞したところによると、左右の軍があり、本軍を翼佐するのが定型であるそうにございます」
「……なるほど」
肥何は、その話だけではなんとも返せなかった。旅をしていた頃の盧武成の感心は軍などにはなく、故に、話せることもまた限られている。
「今の君主――茨子についてはどうだ?」
「そちらについても、詳しくはありません。しかし、兄を弑して君位についたと聞いております」
子狼に聞かれて、盧武成はそう答えた。しかし盧武成としても、それより詳しいことは知らぬようである。そこまで話していて、顓遜は一度、場を離れた。暫くして、沙元を連れて戻ってきた。沙元は商用で南に赴いたこともあり、事情に通暁していることを思いだしたからである。
実際、沙元の話は、盧武成の話よりも、より新しい知識であった。
「今の茨子には兄がいて、継嗣でした。しかし、やがて親子の争いがあり、その兄――羋烙漣という人が、父を殺して即位しました。しかしやがて、今の茨子が兄を殺したのです」
沙元も、父子、兄弟の争いの理由について詳しくは知らぬらしい。ただし茨の巷間では、父子の争いにおいて茨子は兄に加担しており、初めから自分が国君となるための陰謀であったとも言われている。しかしこちらは風説の域を出ぬ話であった。
「その後、二年ほどに渡って、茨子は聴政を行わなかったと聞いております。政務は、一度身を引いた敖賈どのに委ねたのだとか」
「それは、服喪の二年ではないのですか?」
親が死ぬと、その死を悼んで二十五か月の間、喪に服すのが虞の慣例であった。
「公然と兄を殺しておいて、服喪などするものでしょうか?」
「どうかな。味方によれば、父を弑した不孝の兄を殺して、その仇を取ったと見ることも出来るから、父の喪に服したのかもしれんぞ」
顓項の疑問に、顓遜は鋭く返す。沙元の話だけを聞けば、そういう解釈をすることも、一応はできた。
しかし沙元の話では、どうやらそういったことではないらしい。
「茨子は後宮に籠り、放蕩の日々を過ごしたそうでございます。そして二年の間、廷臣の中にその姿を見た者は一人としてなかったのだとか」




