姜子蘭、魏中卿を訪ねる
酔いがすっかり抜けた盧武成は牢の中で目を覚ました。
酒場で無茶な飲み方をした後に、何かがあって喧嘩をしたところまでは覚えている。しかしそれ以降の記憶が全くなかった。
どうやら酔った勢いで盛大にやらかしてしまったらしい。
――深酒が理由で騒動を起こすか。くそ、何をやっているんだ俺は。
誰の耳目もないのをいいことに大きくため息をついた。
すると、牢の前に誰かがやってきた。若い男が二人ほどの部下を連れてそこに立っている。
尋問をされるか。あるいは、もう既に自分の処遇は決まっていて、杏邑を追い出されるか、肉刑を受けることになるか。
そんなことを考えていると、若い男――呉西明は牢を開き、恭しい仕草で盧武成に跪いた。
「我が父の賓客とも知らず失礼を致しました」
突然のことで盧武成にはどうなっているか分からなかった。
そんな盧武成の前に、呉西明は書簡を差し出した。それは盧武成が范玄から預かり、懐にしまっていたものである。
「武庸の范氏より、この書簡を携えた盧子蘭、盧武成という者は我が家の恩人である。杏邑で不便がないよう取り計らっていただきたいと我が父に当てた書簡です。そうとも知らず無礼を致しました」
「我が父、というと――貴殿は呉展可殿のご子息か?」
「はい。字を西明といい、呉展可の次子でございます」
鋭い声で呉西明が叫ぶ。
どうやらあの書簡さえも范玄の好意であったらしい。
「呉西明どの。范氏の書簡にどうあったかは分からぬが、それは私情であろう。私はどうも、酒を過ごして何かしらやらかしてしまったらしい。貴殿にも立場というものがありましょう。父が懇意にしている相手の恩人だからといって、法を犯した者に頭を下げることはありますまい」
うまく立ち回れば牢から出ることが出来る。しかし盧武成はそういった狡さを見せなかった。
しかし呉西明は首を横に振った。
「いえ、武成どのは何も悪事はなされておりません」
「ふむ、すると杏邑では咎のない者を牢中の人とされるのですかな?」
真顔でそう言われて呉西明は渋い顔をした。
すると、呉西明の後ろに控えていた部下が口を挟んだ。
「魯剛なる闘犬の元締めのところで騒動が起きたと聞いて我らが赴いたところ、貴殿は既に魯剛とその部下を打ち倒しておられました。しかし貴方は我らに事情を話されるより先に倒れてしまわれたのでやむなく牢に入れさせていただいたのです。ですがその後、魯剛の部下や賭場にいた者らから話を聞いて貴方の無実が明らかとなりましたので、こうして参ったのです」
そう言われると盧武成は納得した。
そして、酔っていた時の自分の行動を愧じ入り、深く頭を下げた。
「呉西明どの。まことに、ご迷惑をおかけいたしました」
神妙なその態度に呉西明はかえって恐縮してしまった。
「い、いえ。頭をお上げください。こちらこそ、事情を存じ上げなかったとはいえ、牢に入れてしまったことを詫びねばなりますまい」
そう言われて盧武成は顔を上げた。
「ところで、盧武成どの。この書簡にある、盧子蘭どのはどちらにおられるのですか?」
そう言われて盧武成は、気まずそうに視線を呉西明から逸らした。
その頃、これまでの建前上は盧子蘭と名乗っていた少年――姜子蘭は、魏氏の邸の中にいた。
そこで魏氏の長である魏盈と対面していたのである。
姜子蘭は小賢しいことをせず、魏盈の邸に赴くと愚直に、
「虞の第四王子、姜子蘭である。魏氏の長にお目通り願いたい」
と告げたのである。
そう言われた門番は、浮浪者の妄言であろうと取り合わなかった。しかし姜子蘭は真剣な眼差しをしており、しかもよく見ればその見た目は、日に焼けていて襤褸を纏ってはいるがただの貧民と思えなかったので、いちおう上役に取り付いだ。
取り次がれた上役もどうすべきか困惑した。
虞の王子が単身で、しかも襤褸を纏って訪ねてくるなどまずあり得ぬことである。そう考えながらも、しかし、わざわざそんな嘘を吐く者がいるとも思えなかった。
困り果てた末に、上役は魏盈にそのことを取り次いだ。
魏盈は今年で四十二である。しかし子供のような無邪気さがあり、その話を聞くと、
「面白い。その者を連れて参れ」
と命じた。
魏盈からすれば、王子を名乗るその少年が偽物であれば斬り殺せば済むだけの話である。しかし万が一ということがあるかもしれない。
そうであれば、面白いことになる。そういった気持ちで姜子蘭と面会した。
魏盈は広間にて姜子蘭を招いた。
しかも、自分は南に座し姜子蘭を北に座らせようとしたのである。
この時代、座する位置の四方は大きな意味を持つ。主君は北に在り、臣は南に座る。そして主従でなければ、歓待する者が東に座り客が西に座るというのが規範であった。
しかし姜子蘭は、自らが北に座らされそうになった時に、
「私は不意の客です。東面させていただきたい」
と頼み込んだ。
東に座るのは主人であるので、東面、つまり東を向くということは、西に座らせてくれということである。要するに、自分のことはただの客として扱ってほしいと告げたのである。
それまでは半信半疑であった魏盈であるが、姜子蘭のこの言葉を知ると、
――あるいはこの少年は本物の王子かもしれぬな。
と思った。