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春秋異聞  作者: ペンギンの下僕
撃鹿血戦

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虎の食し方

 粗衣のままに猪肉の解体をする姜子蘭を、顓遜はなおも呆然と見やっていた。

 すると紀犁が、


「せっかくですので遜どのも、子蘭どのを手伝っていかれてはどうですか?」


 と、持ち掛けてきた。

 顓遜としてはあまり乗り気ではなかったのだが、姜子蘭は、慣れるとなかなか楽しいものですよと、屈託なく笑った。そう誘われてしまうと、顓遜として断りにくい。


 ――やりにくい人だ。


 虞の王子とは、顓族たる自分たちを心底憎んでいるものだと顓遜は思い込んでいた。撃鹿の大会戦を共に超えた今でも、禍根が完全に消え切ったとは思っていない。

 まして姜子蘭は、宿願のために、虢を離れて東に奔り、北地に逃れ、ついには、北狄でさえ未踏であった北岐山の難路を越えてきた人である。いかに勇将強兵に護られていたとはいえ、十四の少年が容易く為せることではない。

 ならば、その胸中には熱き尊王の志があるはずであり、そういう人にとって、顓に由縁のあるものはすべてが憎いはずである。今に至るまで顓遜はそう考えていた。近づきすぎ、親しみすぎると、顓項や我が身を危うくするかもしれないと戒めていたのである。


 ――しかしどうにも、そんなことを考えていた私の心は、ひどく狭隘なものに思えてくるな。


 自嘲を込めて息を吐くと、顓遜は袖をたくし上げた。


「では、お手伝いさせてもらいましょう。それに、自分で一から捌いた肴で呑む酒は、いっそう旨いでしょうからな」


 そして姜子蘭と顓遜は肩を並べ、楼盾に教授を受けながら猪を捌きはじめる。

 四半刻(三十分)ほどした時に、盧武成がやってきた。どうにか、三人がかりで猪をほぼ捌き終えた姜子蘭たちは、思わずそちらを見る。盧武成の肩には、その巨躯よりもさらに大きな虎が担がれていた。


「武成、それは?」

「この近隣に人食い虎が出るというので、退治してまいりました」


 盧武成は、こともなげに言う。しかし、少しでも山林の暮らしを知っている者であれば、虎というものがいかに獰猛で恐ろしい生き物であるかということを知っている。しかも盧武成は、随伴の者を付けず一人で帰ってきたので、場にいる者たちは目を疑った。


「そうか。まあ、(てつ)を倒した武成だ。流石の腕前だな」

「ところで武成、虎っておいしいのかい? 実は私、食べたことないんだよね」


 それを当然のように受け入れているのは、姜子蘭と脩だけである。

 かつて鬼哭山(きこくざん)で、餮という名の巨大な人食い虎を一人で、しかも短剣一本で斃したことを知っている。餮の体躯は、今担がれているそれの倍はあったが、しかし盧武成は傷一つ負うことなく仕留めたのであった。その武勇を知る二人にとってこのくらいのことは、殊更に驚嘆するような話ではないのだ。


「虎の肉は少し硬いので、(こうじ)を練りこんで焼くと柔らかくなるぞ。その上に酒を少し垂らし、醤で味を付けてやるといい」

「……そもそも、虎とは食べるものなのですか?」


 紀犁は、物珍しげな眼をしている。というのも、顓族にとって肉と言えば羊であり、虎を食べることはない。それは先ほど盧武成も言った通り、虎肉というのは硬く、不味いものと思われているからであった。


「南方ではこのようにして虎を食します」

「そういや武成は昔、南のほうを旅してたんだったっけ?」


 脩の言葉に盧武成は頷く。脩のこれは、前に均から聞いていたことであった。ちなみに姜子蘭にとっては初耳の話である。そもそもこの若き豪傑は、主君に対してひとかたならぬ忠心を向けておきながら、自らの出自や経歴について、主君にほとんど語っていないのだ。

 しかも姜子蘭は、そういったことを咎めたり、過度に詮索しようともせず、


「では早速、南方流の虎の調理の仕方を教わるとしようか。頼むぞ、武成」


 と、朗らかに笑うだけであった。

 ようやく肉にありつけそうだと思っていた顓遜にとっては当てが外れた形となるが、虎の麹焼きという肴には興味を持った。すでに、慣れぬ作業をして腕は疲れ切っていたが、


 ――躍動し、牙を剥いてくる虎ならばともかく、所詮は息の根を止められた虎だ。


 と意気込んで、一度置いた短剣を手に、姜子蘭たちとともに虎を解体することにしたのである。

 そうしてさらに四半刻ほど経って、ようやく、かつて人食い虎であった物をすべて肉塊に解体し終えた時には、姜子蘭と顓遜は全身汗まみれになっており、地に腰をつけて座り込んでしまったのである。


「……も、もう無理だ。流石に、腕が上がらないぞ」

「いやはや、慣れぬことは……するものではありませんな。これでは犬のように、盃に顔をつけて酒を呑むことになりそうです」


 姜子蘭と顓遜は、もはや腕が痺れて正しく動かせないでいる。それでも顓遜は酒を呑むことを諦めていないのだから、紀犁は顓遜に対し、目を伏せつつ呆れ顔を向けた。


「我が君、慣れぬことに腕を使われた日には、寝る前に腕を湯につけて揉みほぐしたほうがよいですぞ。そうせねば、疲れが明日には痛みに変わります」

「……ああ、そうだったな。確か、剣を教えてもらった時にも、教えてもらったから、覚えているさ」


 盧武成は姜子蘭を労り、その体を支えている。


「武成はまるで、子蘭のお兄さんみたいだね」


 脩はその様子を見て、揶揄うように言った。


「やめろ、脩。私が我が君の兄などとは、畏れ多い」


 生真面目な盧武成は、咎める声をあげた。


「まあ、いいではないか。少なくとも范玄どのと士叔來どのにとっては、私たちは兄弟ということになっているのだからな」

「それは……」


 まだ二人が主従となる前の、身分を隠すための嘘を持ち出されて、盧武成はばつの悪そうな顔をする。そこへ、ほんのりと顔を赤らめて、見るからに心地よく酩酊している子狼がやってきた。どうも、肴が尽きたのでもらいに来たようである。


「ちなみに脩よ。武成が私の兄ならば、子狼はなんだと思う?」

「そうだね……。兄は兄でも、悪知恵を授けてくれる不良兄貴、ってところじゃないかい?」


 子狼のことをそういう風に思ったことのない姜子蘭は、釈然としない顔をしている。しかし、横にいた顓遜は、言い得て妙なその表現に、噴き出してしまった。

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