顓謙鄀の処遇
体を縛られ、冷たい石床の上で目を覚ました顓謙鄀は、声を聞いても、それが誰の者か分からなかった。
「……誰だ、お前は」
まだ宿酔の毒に頭を蝕まれながら、顓謙鄀は首だけを上げて顓項を睨む。しかし、顓項を認識できなかったのは、酔いのためではなかった。
「……そうか。俺を兄と呼ぶということは、貴様が顓獄か」
獄とは顓項の諱であり、顓項のことをそう呼んで許されるのは、父と兄だけである。
顓謙鄀は、ここまで大きく対立し、その首に多大な恩賞まで掛けておきながら、顓項の顔すら分かっていなかったのだ。
一応、二人には面識がある。互いに、物心がついている時のことであり、顓項は顓謙鄀の顔をしっかりと覚えていた。しかし顓謙鄀のほうは、少しも記憶に残っていなかったのだ。
「しかし、ここは何処だ? 俺は滎倉の自室にいたはずだぞ?」
芋虫のようにしか動くことが出来ないというのに、その声は落ち着いている。それは潔さというよりも、諦観のあらわれであった。
「ええ、泥酔されておられましたよ。そこを、此方の兵が捕らえたのです」
そう説明したのは、顓項の後ろに控えている顓遜である。顓遜は、顓謙鄀にとっては甥にあたるのだが、年上であるため、言葉遣いは丁寧なものであった。
「……滎倉の中に、お前らの兵がいるものか? なんだ、俺の兵が寝返ったとでもいうのか?」
「いいえ。顓軍の軍装をした此方の兵士に、敗残の兵を装って侵入させました」
子狼が沙元に調べさせていたのは、顓軍の軍機である。顓軍には兵士一人一人についての記録はないが、百長より上の者の名はある。その中で、風山砦にいた者で、かつ、討ち死にした者を照会していたのだ。
そして、三秧軍の中で、平野での会戦に参戦せずに雨山の鵡涯を牽制していた李遼とその兵たちに情報を与え、顓軍の敗残兵を装って滎倉城に潜入させたのである。その中には隠密に長けた細作たちもおり、彼らが顓謙鄀の室に忍びこんでその身柄を押さえたのである。
今や実質的な城主であり、顓戯済の長子が囚われたとあって、城兵たちは完全に士気を失った。
そのうちに、十分な休息を取った三秧軍が攻め寄せてきたために、滎倉城はあっさりと城門を開いたのである。
このような経緯で三秧軍は、一兵も損なうことなく、虞領最大の兵廠である滎倉を手にしたのであった。
そして、顓族にとっては大損失たる滎倉落城の最中、顓謙鄀は、酒精の揺籃に抱かれており、今に至るまで一度も目を覚ますことはなかったのである。
「ふん、姑息な策だな」
「策というのはそういうものです。しかし、無謀のままに狄勇を頼み、やおら将兵を死なせるよりはよいでしょう」
この策を立てたのは子狼と肥何である。しかし顓遜は、そういった弁明をせずに、淡々と語りかけた。
今、この場には顓項と顓遜の他に三秧軍の者はいない。多くは、滎倉の城内を見回り、軍資の計算などをしているのである。そして、顓謙鄀についての処遇は顓項に一任されていたのであった。
「そうか。それで、俺をどうするつもりだ? 首を刎ね、虢の父上にでも送り届けるつもりか?」
言葉を尖らせながら、しかし、命乞いのようなことを顓謙鄀は口にしなかった。縄目の恥を受けてなお、顓項のことを妾腹と呼ぶ以上、今さら見下し続けてきた異母弟に媚態を示してまで生き永らえたくないという、顓謙鄀なりの矜持である。
「父上のところに向かっていただくことにはなりましょう。ただし、敢えて兄上の首と胴とを別とうとは思いません」
「なんだ、今になって悌心のつもりか? しかし、彰期と無卹は殺したのであろう?」
顓謙鄀は撃鹿における会戦のことを知悉してはいない。しかし、この場に自分しかいないののであればそうであろう、という推測は出来た。実際に、顓彰期は撃鹿の会戦で戦死しているのである。
もっともそれは、顓項が殺したわけではない。しかし、顓彰期を討ち取ったのは共羽仞であるので、顓項が殺したも同義であった。
「……無卹兄上は、虢へ落ち延びられたと聞いております」
そう返すのが、顓項には精一杯であった。
「ふん、そうか。無卹のやつはどこまでも愚図な弟だが、悪運だけはあるらしい」
悪態を吐きながら、しかしその言葉には、親愛らしきものが込められている。将としては頼むに足らぬと思っていても、兄としての心というものは、顓謙鄀にもあるらしい。
そして、それに気づいた顓項は、
――この方にとって私は、少しも情を向ける相手だとは思われていないらしい。
ということを、否応なしに突き付けられた。
「――顓遜」
珍しく、顓項は季父にして軍師たる顓遜を呼び捨てた。
「もう、この人と語ることはない。馬と食料を与えて、西へ放逐せよ」
「……かしこまりました、我が君」
高圧的な言葉で命じて、そのまま背を向けた顓項に、顓遜は丁寧に応じた。そして、言われた通りに顓謙鄀を滎倉城の西門から追い出したのである。
馬に揺られながら、段々と小さくなっていく顓謙鄀の影を見ながら、顓遜は、
――ああまで邪険にされて、それでも、兄を殺すとは言えなかったか。
と、主君であり甥でもある顓項の胸中について考えていた。
同時に、子狼や肥何であれば、こうなることは予見できていただろうとも思う。その上で顓謙鄀の処遇を一任したということは、生かしておくほうがよい、と判断したと見ていいだろう。
ならば、そこにはどのような思惑があるのかと、軍師らしいことも考えていた。しかしこちらは、顓遜にはまるで分からなかった。
――まさか、ただ純粋に、顓項の前で兄を殺すのを見せたくなかっただけ、というわけはないと思うが。




