盧武成、悪漢を倒す
柵の内側へ、とりまきを連れてやってきた魯剛を盧武成は睨んだ。
そして、魯剛ではなく周囲の群衆に向けて叫ぶ。
「おい、闘犬では噛み合わせる前の犬にこのような丸薬を呑ませるのはよくあることなのか?」
そう聞かれると、群衆は一気に不満の声を挙げた。盧武成に、ではなく魯剛にである。
当然のこと、このようなことはまっとうな闘犬の勝負では行わない。
つまり魯剛は、犬札の売れ行きを確認しつつ、勝負によっては自分に損が出ないように薬を盛って人気の犬を弱らせることで勝敗を操っていたいたのである。
そのことが今、盧武成の手によって白日の下に晒された。
そうなると群衆たちは怒り出す。だが魯剛は部下たちに剣を抜かせ、威圧させた。すると群衆たちはたちまち蜘蛛の子を散らすように逃げ出していく。
「いらぬことをしてくれやがったな、若造が。気づいたところで知らぬふりをしておけばいいものを」
「ああ、そうだな。そのことは俺も謝ってやろう。常の俺であれば、お前の如き匹夫が賭けにのめり込んだ愚図どもからどのように金を巻き上げたところで、知ったことではないのだがな」
そう言いながら盧武成は拳を鳴らす。
腰に帯びた郭門の剣には手さえかけようとしない。
「だが今の俺は、どうも無性に気が立っている。お前らの如き下種どもであれば、どれだけ殴っても心は痛まん。貴様の生業を潰してやったのは、ただそれだけの理由だよ」
その言葉に魯剛の怒りはいよいよ頂点に達した。
その部下たちが一斉に盧武成に向かっていく。盧武成はそれでも剣を抜こうとはしなかった。
杏邑の港には、魏氏の官兵の他に商人たちが組織した自警団がある。杏邑の商家の若者たちが独自に組織したものであった。その詰所の一つに、魯剛の闘犬の賭場で騒ぎが起きていると知らせがあった。
その詰所の長は呉西明という。
杏邑の大店の次男であり、まだ十七の青年である。血気盛んな年頃であり、家業の商売を手伝うよりも自警団の中で日々、剣や矛を振るっているほうが性分に合っているといってほとんど実家に寄り付かない無頼の徒であった。
詰所の敷地で矛の訓練をしていた呉西明は、部下からその報告を聞いて心を弾ませた。
「ほう、魯剛のやつめ。ついにあの如何様が見抜かれたか。ならば今頃、奴の賭場は騒然としていることだろう」
呉西明は退屈を嫌う。
喧嘩や騒乱が起きたとなると、嬉々とした表情を見せて、十人ほどの部下を連れて魯剛の賭場へと向かった。
魯剛は粗暴で、しかも強引な勧誘をして人を自分の賭場に誘い込む評判の悪い男である。しかも多様なしびれ薬を用意して闘犬の勝敗を左右して暴利を貪る悪漢であった。そういうことは呉西明も知っていたが、証拠がない。
なのでこれまで捨て置いたが、騒動を起こしたとなれば話は別である。
場末とは言え、あのように柄の悪い男がのさばっているのは我慢がならなかった。そして何よりも、魯剛には二十人ほどの柄の悪い部下がいる。呉西明の手下の倍であるが、
――数の不利があれば、それだけ戦い甲斐があるというものよ。
と、呉西明はむしろやる気を起こしていた。
そう息巻いて辿り着いたそこでは――魯剛とその部下は、意識を失って山のように積まれていた。
その山の上には、一人の若い男が悠然と座っている。
肌が真っ赤に焼けた、猛禽のように険しい顔つきの人物――盧武成は、呉西明の姿を見るとその上から降りてきた。
「なんだお前たちは?」
盧武成が誰何すると、呉西明は矛を構えた。
「そ、それはこちらの台詞だ。名乗れ!!」
男は目つきが悪く、しかもうっすらと酒の匂いがする。それでいて呉西明らを睨む顔には鋭さがあった。呉西明は無意識に半歩下がりながらも、強気を示して盧武成に聞く。
「旅の者で、盧武成という。この賭場で厄介ごとに巻き込まれてな。止むを得ぬので襲い来るものを打ち倒した」
こともなげに語る。
しかし倒れている者たちに切傷はなく、盧武成に剣を抜いた形跡はない。一方で、魯剛とその部下らが使ったであろう剣はあちらこちらに転がっていた。
――二十人からなる無頼の徒を一人で、しかも拳で倒したというのか?
慄きながらも、ここで退けぬ呉西明は、大人しくしろと盧武成を威圧した。
本来であればここで盧武成と敵対する理由などなく、ただ事情が聞ければそれでよいのだ。しかし冷静にそう言えなかったのは、呉西明も動揺していたからである。
「そう強い言葉を使うな。お前たちの十人如きは……」
そう話している最中、盧武成は大きなあくびをした。
ふざけるな、と呉西明は叫ぶ。しかしその声は盧武成の耳には届かなかった。盧武成はそのままふらり、と棒きれのように地面に倒れこみ、そのまま眠りこけてしまったのである。
呉西明とその部下は呆気にとられてしまった。
「……どう、いたしましょう?」
部下の一人が困ったような顔をして聞いた。
呉西明はまだ困惑しつつも、とりあえず縛り上げて詰所の牢に入れることにした。