闘犬
杏邑の中心街は最も盛んに商船が往来する地である。
そこに作られた船着き場では様々な品が水揚げされ、人々は熱気をもって船と陸の間を往復した。
こういった港や、それに限らずとも人の往来が盛んな地には必ずあるものが三つある。
酒場と賭場、そして妓楼だ。
姜子蘭と別れてから、どうにも心がざわめきだって落ち着かない。といって、その激情を博打に興じたり女を抱くことで発散させようとは露ほども思わないのが盧武成の性質である。
代わりに盧武成は、手近な馬宿に馬車を預けて酒場に入った。
そこは広くはあるが粗末な作りをしており、中は昼間だというのに喧噪に満ちている。荷下ろしや運搬などの力仕事に従事する人夫らが主に出入りする安い店である。
盧武成はそこで魚の素焼きを丸々一尾と、酒を甕で頼んだ。応対をした店の下女は困ったような顔をしていたが、盧武成が懐から相場よりも多めの銭を取り出すと気をよくして快く机の横に持ってきてくれた。
盧武成は魚を豪快に食らいながら、まるで水でも掬うように甕から酒を汲んで飲み干していく。そうして、四半時(三十分)もしないうちに甕は空になってしまった。
体には酒が回って、やや重いような気がする。
しかし呑めば吞むほどにむしろ頭ははっきりとしていき、素面の時よりも苛々としている。それでいてこの苛立ちがどこから来るかが分からないのだ。
――子蘭のことなど知ったことか。天子がどうだとか、王朝の盛衰など俺にはどうでもいい話だ。
まだ心の中が落ち着かない。
ならば呑んで鎮めるしかあるまい。そう思い、甕をもう一杯と頼んだ。そこへ、
「よう、羽振りがいいな兄ちゃん」
と、声を掛けるものが現れた。
大柄な男である。猪のように毛むくじゃらで、盧武成に笑いかけるその顔は性根の悪そうないやらしさがあった。しかもその後ろには柄の悪そうな男たちを何人も引き連れている。
「悪いか。俺が大酒を飲んだところでお前に迷惑がかかることなどないと思うがね?」
盧武成は横目でその大男を冷ややかに見つめ、甕から酒を掬う。
ふと周囲を見ると、先ほどまでの喧噪が止んでいた。周囲の客たちは盧武成の席――というよりも、この大男を避けるように離れていっていた。
「いやいや、何も文句をつけようってんじゃないさ。見たところあんたは旅の者だろう? 杏邑で散財してくれるというなら願ったりかなったりさ」
「ならば俺のことは構わないでもらおう。喧噪は苦にならぬが、今は誰とも話さず一人で呑みたい気分なんでね」
盧武成はそっけなく言い、それきり男には視線もくれず無言で盃をあおった。
しかし男は話を聞かず、許しも得ずに図々しく盧武成の正面に座った。
「まあそう言うな。何か嫌なことがあり、それでいて銭ならば持ってるんなら、俺の店にでも遊びに来ないか?」
「なるほど。お前はどこぞの鉄火場か妓楼の人間か。いいや、妓楼の主というような身なりではないし、せいぜいが場末の闘犬の元締めというところか?」
「おう、よくわかったな。賭け事なんてのは結局、単純なほうがいいのさ。二頭の犬を用意して、どちらが勝つかを予想する。それだけのことに人てのは夢中になるものさ。こんなところで眉間にしわを寄せて黙々と酒を呑んでいるよりもよほど気が晴れるだろうぜ」
「そんなものかな?」
「あんた、賭け事をやったことは?」
「ない」
盧武成はきっぱりとそう言った。
「なら、経験と思って試しにどうだね?」
そう言われると、盧武成もその気になった。というよりも、このままうだうだと絡まれ続けるのが面倒になったのである。盧武成は勘定を済ませると、甕を両手で持ち上げて残りの酒を一気に飲み干した。一度口をつけたものを残して店を去るのは気が進まなかったからである。
そうして店を出てこの男――魯剛と言う名の男に言われるままに盧武成はついていった。
そこは港から離れた、人気のない陰気な場所である。さびれたところであるが、近づいていくとやがて騒がしく絶叫する声がいくつも聞こえてきた。
そこは開けた場所であり、人だかりができている。その中央には柵が円状に張り巡らされており、群衆は柵を取り囲んでいる。
「あそこで犬を嚙合わせる。まず最初に、戦う二頭の犬を見せて回るから、どちらに賭けるかを決めてあそこに座っている男から犬札を買え」
「犬札とはなんだ?」
「自分が賭けた犬を現す札さ。札には大、中、少があってな。少札が一銭、中札が五銭、大札が十銭だ。犬札は勝負の後に、あそこの換金所で買い取る。といって、負けた犬の札はただの木くずだぜ。だが勝った犬の札ならば、どれだけ安くても少札一枚につき二銭で買ってやる」
安くても、ということは場合によってはもっと高値になることもあるのだろう。
それは勝負する犬の強さが伯仲しているか、それとも強さに開きがあるかどうかということである。若い犬と年老いた犬、壮健な犬と貧弱な犬の勝負となればどちらが勝つかなどは分かりやすい。そういった場合は、見るからに勝ちそうな犬に賭けた場合は配当が低く、勝ち目のなさそうな犬に賭けてそちらが勝てば見返りもそれだけ大きいということだ。
「ふん、なるほどな。まあ、賭けるのは後にしてまずは犬同士の噛み合いを見せてもらうぞ」
「ああ、そりゃあ構わないぜ。好きなだけ見るといい。別にここに来たからといって、必ず犬札を買わなきゃならないという決まりはないのさ。といって、噛み合いを見ている連中は気が付けば賭けずにゃいられなくなっちまうみたいだがな」
下卑た笑みを浮かべる魯剛を無視して盧武成は柵のほうへ近寄る。
ちょうど、今から勝負が始まるところであった。一方の犬は大柄で気勢猛々しく、もう一方の犬も闘志はあるが瘦身である。犬の横にはそれぞれ魯剛の家来と思しき男がおり、勝負が始まるまで犬を抑え込んでいた。
その男たちを見ている時に、盧武成は眉を潜めた。
足元を見ると、拳くらいの大きさの石が転がっている。それを拾い上げると、柵の隙間から投げ込んだ。狙うのは、大柄なほうの犬を、その鼻から口の辺りを撫でて抑え込んでいる男の手である。
突如飛んできた石があたり、男は犬から手を放す。その手からは、小石くらいの大きさの黒い丸薬が落ちた。
突然のことに観客たちは何が起きたか分からなかった。
だが盧武成は平然と柵を乗り越えてその中に入ると、丸薬を拾いあげた。石を当てられた男は慌ててそれを拾おうとするがもう遅い。
まずい、と思ったか、魯剛も柵の内側へ駆け込んでくる。その魯剛に、盧武成は冷ややかな視線を向けた。