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春秋異聞  作者: ペンギンの下僕
王子漂泊
2/57

顓戎壟断

 初夏の日差しが地を焼くように照り付けている。

 その青年はぬかるみの中を歩いていた。顔色は日に焼けて楓のように赤く、精悍な顔つきは猛禽のようであった。朱色に染めこんだ戎衣を着た、身の丈七尺九寸(約186センチ)の大男である。

 彼がいるのは孟申(もうしん)という町であった。先ほど洪水があり、大陸を東西に横断している大河が氾濫したため、町の中ではいたるところに廃屋があり、どこを歩いても泥だまりである。

 町を歩く人々の顔は暗い。それは洪水の被害がもたらしたものであるが、それだけではなかった。

 孟申の町は、いちおうは虞王朝の一邑である。

 しかし実際に孟申を差配しているのは顓公(せんこう)という君主であった。

 十五年前。虞王朝は姜転――虚王と諡された君主の悪行のせいで滅亡の危機に瀕していた。西方の国、秦がさらに西の蛮族である顓と手を結び、虞都吃游(きつゆう)を攻めたのである。秦の君主、嬴斉(えいせい)は虚王の岳父でもあった。しかし自身の孫にあたる太子孟発(もうはつ)が不当に廃嫡されたことに怒りを覚え、顓と結んで吃游を攻めたのである。

 嬴斉は虚王を退け、孟発を新たな虞王とできればそれでよかった。

 しかしそのために兵を借りた顓公の貪婪を見抜けなかったのである。

 顓公は吃游を落とすと、嬴斉と孟発に矛を向けた。さらに秦の兵を追い出して吃游を自分一人の掌中に収めてしまったのである。

 しかしこの難を逃れた公子がいた。姜寒(きょうかん)という公子である。

 姜寒は東に逃げ、(かく)という地を新たな虞王朝の都とした。

 吃游が落ちたといっても、未だ各地には諸侯がいる。虞王朝の始祖より分封された諸国である。これらの国の力を借りていずれ顓を討ち、虞王朝を再興しようというのが姜寒の考えであった。

 しかし未だ虢の体制が整うより前に、顓は東進してきた。そして虢を脅かしてその支配下に置いてしまったのである。姜寒は死こそ免れたが、顓公の傀儡とされた。

 それでも、顓公が善政を敷くのであれば民はそれでよかっただろう。

 しかし顓公の治世はおよそ良いとは言えぬものであった。悪政と言えぬところは、高額な租税を取り立てたり悪しき命令を徒に出していないからである。ただしその代わりに、何もしないのだ。

 税を取るだけ取って国政というものを顧みないのである。朝堂にはほこりがつもり、顓公とその重臣たちは後宮に籠って遊んでばかりいる。平時であればそれでも、まだましであると言えよう。しかし今回のような災害が起きても我関せずなのである。それどころか、税の徴収は例年通りに行うという。


 ――この有様では、まともに税を納めるどころか、民が自分で食べるだけの食い物すらあるまい。


 周囲を見回して青年はそう思った。

 その時、遠くから轟音が響き、悲鳴があがった。青年が向かうと、その先ではそれなりに大きな屋敷が倒壊していたのである。ぬかるみで地盤が緩み、屋敷の支柱が重みを支えきれなくなったのであろう。


「中に人は残っているか?」


 青年は近くにいる者に訊いた。この屋敷の丁稚らしき少年がうなずく。

 青年はそうか、というと倒壊した屋敷のほうへ躊躇いなく近づいた。そして、周囲に集まってきた野次馬たちに声をかける。


「おい、男衆は手を貸せ。まだ中に人が残っているというぞ」


 しかし周りの者たちは厄介そうな顔をした。


「無理だよ。どうせ倒れた時の衝撃でみんな死んでしまっているだろうさ」

「そうだそうだ。それに、助けたところでいいことなんてあるまい。俺たちは自分らが生きてくことだけで手いっぱいなんだ。見ず知らずの誰かのために汗を流すようなゆとりなんかないね」


 そう言って群衆は気まずそうな顔をしながら離れていった。

 残されたのは丁稚の少年一人だけである。年のころはまだ十歳くらいであり、心細そうな顔をして青年を見つめていた。


「おい小僧。手伝え。中にいるのはお前の主人や同輩なのだろう?」


 声をかけられて丁稚の少年はびくり、と肩を震わせた。

 青年は不愛想な顔をして言う。


「それとも、お前もあの群衆らのようにどこかへ行くか? それならそれで構わないぞ」

「え?」


 少年は驚きの声をあげた。


「彼らが悪いわけではない。人は余裕がなくなると正しい心を失ってしまうものだ。まず自分が生きるための手段を安定させて、はじめて他人のために何かをしようと思える」


 青年は背を向けて倒れた木を持ち上げる。苦戦しつつもどうにか少し浮かせると、用意しておいた長棒を木と地面の間にいれて固定した。


「で、でも僕はまだ子供で。あなたみたいに倒れてきた木を持ち上げるような力はないよ」

「だが、俺より体が小さい。俺であれば入り込めない隙間に潜ることも出来るだろう」


 そう言って一度出てくると、周囲を見回した。

 それなりの屋敷であり、倒壊した屋敷の横には納屋がある。その中から縄を持ち出すと青年は再び屋敷の中へ向かおうとして、その前に丁稚の少年の前で足を止めた。


「それでどうする?」


 感情の読めぬ言葉である。

 少年はまだ震えていたし、その目じりには涙が浮かんでいる。しかし、意を決したように青年の目を見て、いく、と頷いた。

 そうして青年と少年は倒壊した屋敷の中を、邪魔な木々を持ち上げたり時には這いずって進んでいった。

 入っていく前に青年は不思議なことをした。納屋から持ってきた縄の先端を入口のところに置き、そこに石を置いて動かないようにしたのである。


「ところで小僧。中にいるのは何人くらいだ?」

「ええと、大旦那様一人だよ」

「ほう、見たところそれなりに裕福な家のようだが、家人はいなかったのか」


 その問いかけに少年は黙り込んだ。

 何か言いにくい事情があるのだろうと思い、深く聞くことはしなかった。そしてそれからは話すことはなく、黙々と倒壊した屋敷をさらに奥へと進んでいく。そのうちに、何かが動く音がした。

 次に、そちらから声がした。


「……誰か、おるのか」


 か細い声である。

 その声を聞いて後ろの少年が反応した。


「大旦那様、僕です。(きん)です」

「おお、均。助けに来てくれたのか。その気持ちは嬉しいが、いますぐ逃げなさい。儂はもう助かるまいよ」


 声はするが姿は見えない。さらに奥に進むと、そこには白髪ひげを蓄えた細見の老人がいた。しかし横たわった柱の下敷きになっていて動きが取れないようである。奇跡的に、柱は完全に倒れきっておらず、その体が押しつぶされてはいないがそれも時間の問題であった。

 青年はその老人の下へ歩いていく。


「そういうことを言ってやるな。百足の真似をしてここまでやってきながら何も為せずに帰るなど、この少年にとって勇気の出し損ではないか」


 そう言うと青年は、老人の上に横たわっている柱に手をかけた。そして、顔を真っ赤にしながらもどうにかそれを少し持ち上げた。


「おい、均とやら。さっさとそのご老体を引きずり出せ」

「は、はい」


 そう言って少年――均は老人の手を取って引く。老人のほうも、どうにか体に力を込めて柱の下から這い出た。


「さて、ご老体。均は貴方の他には人はいないと言っていたが間違いはないな?」


 その言葉に老人は頷く。

 ならば、と青年は老人を支えながら、這わせてきた縄を頼りに来た道を戻って外に出た。

 外に出るとすでに日はその大半が西の山のほうへ隠れていた。茜色に染まる空の下に、泥だらけになった三人の男がいる。


「まさか、生きて日を見ることが叶うとは思いませなんだ。ありがとうございます」


 老人は恭しく礼を言った。


「礼ならば均に言うのだな」


 そう言ったが、青年が横を見ると均は、助かったと安心して緊張の糸が切れたらしくすやすやと眠っていた。青年は軽くその頭を撫でてやると、均を抱きかかえた。


「納屋を一晩借りるが構わないな?」

「もちろんですとも。命の恩人に報いるには粗末な寝床でございますが、お使いください」


 そう言って老人もまた納屋のほうへ足を運ぶ。

 その時になって、老人は青年に訊いた。


「ところで、名前を窺っておりませなんだな」


 青年は億劫そうな顔をして、


()武成(ぶせい)だ」


 と、そっけなく言った。

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