杏邑
太陽の光を受けて輝く水面は黄金のような輝きを放っていた。
大陸を東西に横断する黄河は、黄金色の沈砂のために黄色い水色をしており、故に黄河と呼ばれる。
数百からなる支流を持ち、太古より多くの恵みと破壊を人々にもたらしてきた水源である。
姜子蘭と盧武成の目指す地、杏邑はそのただ中にあった。
「話に聞いてはいたが……これほどまでとは思わなかった」
姜子蘭はこれから待ち受けることなど忘れ、黄河と――黄河の支流の一つである杏水の中にある巨大な城郭に圧倒されていた。杏水は黄河の本流から近く、川幅が一里(約五百メートル)ほどの河である。
その上にある杏邑は、大陸でも極めて珍しい形状をした城郭都市であった。
東西の門は杏水の上に架かる水門であり、方状の城壁で二つの水門を繋いでいる。その中には杏水が横断し、杏水からはさらに多くの支流が枝分かれしているので街の中にもいくつもの川があった。
城内の移動には、馬車も無論走ってはいるが舟も多くあり、河の上にある城と言っても過言ではない。
「杏邑は元は樊の東の要地であり水塞だ。共王の御代に樊の献公が築かせたのが始めだというが、その頃はこのような城ではなかったと聞く」
「うむ。その話は私も巫帰から聞いているぞ。築氏から工官を招き、二十年の歳月をかけて築き上げたものだと教わった」
「ああ。その頃の魏氏の長、魏堰が吃游に赴き招聘したという。魏氏はその功で杏邑の城主となり、やがては六卿にまで上り詰めた」
東西に通じる黄河には多くの商船が往来し、その中心となる杏邑には様々な物資が集まる。魏氏はそれらの商船から税を取り、またそこから水揚げされた品を求めて多くの人がやってくる。
今の樊の三卿の中で経済的に最も豊かなのは間違いなく魏氏であった。
杏邑に入った二人は、まずは范玄に頼まれた書簡を渡すために呉氏という商人の邸を探すことにした。
存外すぐにそれは見つかった。
少し道行く者に話を聞けばすぐに教えてくれたのである。どうやら杏邑では有名な商人らしい。
「ならば、ついでに呉氏とやらの店でお前の服も仕入れるか。人は風体ではないが、密勅を携えてきた王子が襤褸を着ていてはまずかろう」
姜子蘭はまだ襤褸を着ている。出会った時に姜子蘭が着ていた衣服は泥で汚れ、しかもそれを水で洗っても綺麗にならなかったので畳んでしまってある。
「……しかし、私には金などないぞ」
姜子蘭にとって財産と呼べるものは腰に佩いていた剣一振りだけであった。
「そういえば、今さらだがお前、最初に会ったときになぜ馬首などにしがみついていた? いやそれよりも、いかに秘密の旅とは言え従者の一人くらいはいないのか?」
「……本当に今さらだな。まあ、馬にしがみついていたのは追われていたからさ。馬車が壊れてな。追手が迫っていたので仕方なく馬に跨ったら、そのまま制御が利かなくなってしまった」
馬に乗ったことのない者であればそうなるだろう。
「従者は……一人いた。路銀もその者に預けていたのだが、私を逃がすために留まってくれた」
遠い目をしている。あの状況であればその者はもう生きていないだろう。
あの時に一人であったならば、そこまで考えるべきだったかもしれない。盧武成は自分の軽率な言葉を悔やんだ。
「それが巫帰だ」
しかもその従者というのが、姜子蘭の身の回りの面倒を見ていた宦官であるという。
「……そうか」
「それから、わけも分からぬままに馬に振り回されて、ずっと怖かったよ。このまま私は何も為せずに殺されてしまうと思うと、父祖に申し訳が立たないからな」
初めて会った時には絹のように白かった肌は旅の中で夏日を浴びて赤くなっている。それだけ苦労を重ねてきたことの証であった。
「しかし、武成のおかげでここまで来れた。ありがとう」
「なんだ、改まって?」
そう聞くと姜子蘭は不思議そうな顔をした。
「だって、私と武成はこれまでであろう? ここまで私を届けてくれる、という約束だ」
そう言われてはたと思い出す。盧武成は特に考えもなく、呉氏の元に寄ってから姜子蘭と共に魏氏のところへ行く気でいたのだ。
「そうだな。いや、呉氏のところへは武成が一人で行ってくれ。我らはここで別れることにしよう」
そう言うと姜子蘭は、馬車に布で包んで保管してある剣を指さした。
「あの剣を貰ってくれ。范氏がお前にくれた郭門の剣よりも斬れ味は劣るかもしれないが、それでも虞の宝剣だ」
盧武成は水をかけられたような驚いた顔をした。
「あれが、今の私に出来る最大の礼だよ。足りない分は、虞が昔の隆盛を取り戻したら私のところに取りに来てくれ。たとえ私が破産したとしても、必ず望むだけの物を用意すると誓おう」
そう言うと姜子蘭は馬を曳きながら魏氏の長――魏盈の邸のあるほうへ向かった。
残されたのは盧武成と馬車だけである。
ゆっくりと歩いていく姜子蘭の背はどんどん小さくなっていき、やがて杏邑の雑踏の中に消えていった。
思えば姜子蘭など、盧武成の旅の最中に転がり込んできた厄介者でしかなかったはずだ。
これまでも一人で旅をしてきて、今また一人に戻るだけのことである。それが寂しいとかつまらないといった感傷は盧武成にはない。
それなのに。
死地にあった時のことを思い出しながら、死に怯えるわけでもなく、何事も為せずに死ぬのは父祖に申し訳が立たないと本心で告げた姜子蘭の顔が脳裏から離れない。そのことを考えると、無性に腹の底が熱を帯びて苛立ちをもたらすのだった。