三疑
「巫という氏は聞いたことがない。その話は本当なのか?」
姜子蘭は疑いの眼差しで盧武成を見た。
「ならばお前は、虞の六氏を知っているか?」
虞の六氏とは虞に置いて様々な伝統技能を継ぐ家のことである。
「礼氏、歌氏、史氏、暦氏、築氏、卜氏であろう?」
「それらの家が司るものは何だ?」
「儀礼、歌楽、歴史、暦、建築、卜占だろう」
姜子蘭はそう言った。
「五つは俺の知識と合う。だが虞の卜氏とは聞いたことがない。卜占を司る家は巫氏だと俺は父に教わった。卜氏という氏は聞いたことがない」
「ならば武成の父の知識に誤りがあるのではないか? 宦官とはいえ虞王家に仕える者の知識に誤謬があるとは思えないし、私は書物の中でさえ巫氏なる氏を見たことはない」
そう言われては盧武成としても返す言葉に困った。
盧武成の父は博識な人であり、実に色々なことを教えてくれた。しかしそれはどこまでも父や、父の用意した書物から得た知見に過ぎず、それを実際に確かめたことはない。
姜子蘭の言う通り、虞に仕えている者と、虞から遥か東にある尤山に住む者の知識とであれば虞に仕えた巫帰という者のほうが正しいのではないかと思った。
「そうだな。そういえば、俺も父の教えで今思い出したことがあったよ」
「なんだ?」
「三疑、と言ってな。『師の言、疑うべきなり。書の文、疑うべきなり。己の考、疑うべきなり』。生きていくならば常に心しろと言われた。そのくせに、父は幼少の頃に一度この言葉を口にしただけだから今の今まで忘れていたよ」
盧武成は大きくため息をついた。
そして姜子蘭はその言葉に眉を寄せた。
「なんだそれは? それでは何も信じるなと言っているのと変わらないではないか」
「信じるなとは言っていない。疑えと言っている。つまりは、他人の口から発せられた言葉や書物の知識を鵜呑みにするなということだろう」
「ならば『己の考、疑うべきなり』とはどういう意味だ?」
「事に挑むに当たって、自分の考えたことに対して疑いの目を向けることで、それが正しいかどうかを見極めろ――ということじゃないか?」
盧武成は歯切れの悪い声で言った。
盧武成自身、父からその言葉を教えられはしたが、解釈までは教えてもらっていない。この意見はあくまで盧武成なりに考えた説明でしかない。
「それは何かの文献にある言葉なのだろうか? 私は聞いたことがないぞ」
「俺もない。だが、由来があるとすれば、わざわざ書物にこんなことを書いた奴はそうとうなひねくれ者だろう」
「……なあ武成」
姜子蘭は声を重くした。
「人の親を悪しざまに言うのはよくないとは分かっている。分かっているのだが……」
「なんだ?」
「武成の父は、その……なかなかの変わり者ではなかろうか?」
姜子蘭は申し訳なさそうな顔をしている。
これでも姜子蘭は言葉を選んでいるのだ。そのことは盧武成にも分かった。
その上で盧武成ははっきりと、
「そうだな。俺もそう思うよ」
姜子蘭の言葉に同意した。
杏邑への旅の中で盧武成は、范玄から貰った剣を佩いていた。その姿はとてもさまになっており、すぐに今までの、剣を持っていない盧武成のほうがおかしかったように姜子蘭には思えた。
聞いたところによると盧武成は元は剣を持っていたのだが路銀がなくなったので売り払ったとのことである。
なので旅の道中での剣の稽古も盧武成が自作した木剣で行っていた。その時の盧武成は、刃がなく物が斬れずとも力を込めて打ち込めば人の骨くらいは折れる。ならば身を守り敵を打ち倒すのに不都合はないと言っていた。
しかし剣を手にした今、盧武成は時おりその剣を抜いて眺めては感嘆の息を吐いている。
その剣は柄にも鞘にも一切の装飾がない、どこにでもあるような変哲もない剣のように姜子蘭には思えた。
しかし盧武成はそれを、稀代の宝剣のように大切に扱っているのである。
「私は不見識で剣の良し悪しには詳しくないのだが、それはそんなに良い剣なのか?」
姜子蘭が聞くと盧武成は静かに頷いた。
「ああ。これは間違いなく郭門の剣だろう。一切の飾り気がないのは、心血のすべてを刃の斬れ味を研ぎ澄ますことのみに注ぎ込んだからに他ならない」
「郭門とはなんだ?」
「南方、茨国の製鉄の大家だよ。『鉄を打ち刃を研ぐこと郭冶干に如くは無し』と言ってな。郭冶干という男がかつて、それまでに例を見ない卓越した製鉄技術を生み出した。その教えを受けた者を郭門と呼び、郭門の鍛えた鉄はそれ以外の鍛冶師の鍛えた鉄の五倍から十倍の値がつくという」
「范どのはよく、そんな代物を一日で仕入れたものだな」
姜子蘭は剣の良さよりも范玄の手腕に感心していた。
「商人となれば物品の仕入れ筋は色々とあろうさ」
冷静にそう口にしながら、しかし盧武成も密かに心を躍らせていた。郭門のことは知っていたが、まさか実際に手にすることが出来るとは思っていなかったからである。
あれだけ范玄の前で強情を張っておきながら、今はその礼を童子のような無邪気さで喜んでいる盧武成がそこにいた。
二人はそうして、他にも色々なことを話し、剣の稽古をしながら半月ほど旅をして、ついに杏邑に着いた。