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春秋異聞  作者: ペンギンの下僕
王子漂泊
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刀筆を贈る

 一晩、范家に泊まった盧武成と姜子蘭は、久しぶりに牀の上で柔らかい布団に包まれて眠ることが出来た。

 姜子蘭は始め、何故か牀を離れて床の上で寝ようとした。盧武成が理由を尋ねると、


「私はここまで、落ち着いて眠れぬことが多かった。しかしそれは必要なことであり、ここで安眠の心地よさを思い出してしまうと決意が鈍ってしまいそうなのだ」


 と大真面目な顔で言う。姜子蘭なりに、盧武成から言われた、苦痛を受け入れろとの言葉を忘れないようにしての行動である。


「その心意気はいいが、せずともよい苦痛を覚える必要はないだろう。どうせ、これから先にも苦労などいくらでもしなければならないのだ。休める時には休んでおけ」


 盧武成はそっけなくそう言った。そして、倒れられたら俺が迷惑する、とも付け足した。

 そう言われると姜子蘭としても返す言葉がなく、布団で眠りについた。

 翌朝、目覚めると范家の家人は一様に白い服を着ていた。喪服である。姜子蘭と盧武成、そして均も范玄が用意した喪服に着替えた。

 そして、骸はこの地になく、遺髪に随葬をいれて庭に埋めるだけの簡素なものではあるが、范旦の葬儀が執り行われた。

 葬儀が終わると随葬品の複製を死者の縁者に受け渡す儀を行う。その役目は喪主である范玄の役目である。墓前にそれらを並べ、受け渡す相手の前に喪主が持っていくのが儀礼であった。

 しかしそこで盧武成と士叔來は気になったことがある。

 随葬品の複製は木箱に納めてあるのだが、箱は五つあった。しかしそのことを聞くことも出来ない。范玄は箱を手に取り参列者のもとへ向かう。しかしここでもおかしなことがある。

 受け渡しは喪主を最後とし、年長者から行う。しかし范玄が手にしたのは小さな木箱であった。范玄を除けば盧武成が一番年長であり、盧武成には剣を渡すことになっている。范玄の持つ木箱はどう考えても剣の入る大きさではない。

 この段階で盧武成は范玄の意図が読めた。

 そしてその予想のとおり、范玄は士叔來の前にいき、跪いて木箱を渡した。


「主人、これは――」

「お受け取りください。父もそれを望んでおられるでしょう」


 そう言われて、士叔來は頬を涙で濡らした。そして恭しい仕草で范玄から木箱を受け取った。

 その後は、盧武成、姜子蘭、均の順番に范玄から木箱を受け取り、儀式は終わった。




 范旦の葬儀が終わると、盧武成と姜子蘭は范家を出ることにした。

 范玄、士叔來、均がそれを見送る。その際、范玄は書簡を盧武成に手渡した。


「これは?」

「杏邑にいる知己への書簡です。呉氏の展可(てんか)という、造船と水運を生業としている男でしてね。杏邑に行かれるのであれば、届けていただけないでしょうか?」

「ああ、わかった」


 書簡を受け取って、二人は范家を後にした。

 均は最後まで名残惜しそうにしていたが、泣くことはなかった。

 そうして武庸を出ると、盧武成と姜子蘭の二人旅である。武庸の城内では馬を曳いて歩いていた二人の体も今は馬上にあった。


「均はうまくやれるであろうか?」


 姜子蘭は均を案じるようなことを言った。


「范どのであれば問題はあるまい。あの人と家宰の士氏が刀筆を送ってくださったからな」


 刀筆とは、筆と小刀が一体化した筆記具である。筆はもちろん字を書くためのものであり、小刀は竹簡に誤字をしたときに削るためにつけられているのだ。

 しかしそれが、どうして問題ないということになるのか姜子蘭には分からなかった。


「刀筆を送るということは、字を教えるということだ。均のことをただの小間使いにはしない、ということであろう」

「字など誰でも習うだろう?」

「そんなわけがないだろう。というか、お前にだって侍童やら侍女やらは――」


 そう言いかけて盧武成はやめた。

 王子ともなれば、そう言った身の回りの世話をするような人間でさえ教養を身に着けているだろうと思ったからである。だから、世の中には読み書きと無縁のまま一生を終える人間がいるとは想像もつかないのかと思った。

 しかし姜子蘭は、


「そんなものは私にはいなかったよ」


 と、表情に陰をつくって言った。


巫帰(ふき)という宦官(かんがん)が一人いただけだ。身の回りのことから勉学の指導まですべて巫帰がしてくれた」

「……そうか」


 宦官とは去勢した男性のことである。後宮において王侯の妻女の身の回りの世話をするのが主な役目である。基本的には無学の者が多いが、中には教養を身に着けている者もいた。

 だが一人というのは少ない。王子の待遇ではなかった。

 だが平時ならばともかく、今の虞は顓の支配下にある。そのような情勢にあって、しかも第四王子という身分であればそうなるのも仕方のないことなのかもしれない。


 ――こいつはこいつで、王子として生まれたにしては肩身の狭い過ごしをしてきたのだろうな。


 そう考えながら、ふと今の話で気になったことがある。


「ところで子蘭、その宦官の氏名はどんな字を書く?」

「巫術の巫に、帰すると書いて巫帰だ」


 そう説明してから思い出したことがあったようで、そういえば、と口にした。


「巫は氏だが姓は教えてくれなかったな。それに巫帰は私に、人前ではただの帰と呼べと常々言っていた。宦官が氏を持っているのは普通ではないからと」


 姜子蘭は、そういうものなのだろうというくらいの感想である。しかし盧武成は真剣な顔をしていた。


「当たり前だ。巫氏の宦官など常ならいるはずがなかろう」

「……どういうことだ?」

「巫氏は代々、虞の卜占官(ぼくせんかん)を務めた家だ」

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