共羽仞
沙元の話によると、共羽仞は今年で四十一となる顓族の将らしい。
かつて顓が虞を攻めた時に従軍しており、後には、樊の荘公が畿内諸国を率いて顓と戦った撃鹿の戦いにも参戦していた。隻腕は先天ではなく、撃鹿の戦いで失ったとのことである。
その後は、西に帰り、隊商の護衛などをしていたとのことである。元から豪勇が自慢の人であったが、右腕を失ってもその武威に翳りはなく、護衛としての評判はすこぶる高かった。
「しかし、西に帰ったというその人物が、何故に顓の北地で雑兵などをやっているのです?」
子狼の疑問はもっともである。しかしそれは、沙元にも分からぬことであった。
しかし同名で、隻腕で、それでいて強い者となればまず間違いないであろうと、自信をもって言い切ったのである。
「ったく、西に帰ったというのなら、そのまま故郷で余生をすごしていてくれればよいものを」
子狼が毒づく。もちろん、共羽仞と戦うための方策はあるが、それはそれとして、子狼は苦戦や難敵などは求めていないのである。なるべく将兵の労を少なくして勝てるのであれば、それが一番よいと考えているのだ。
「……次は、負けません。我が君の御為に、必ずや共羽仞を倒してみせまする」
盧武成は悔しそうな顔を押し殺して、姜子蘭に言った。
「その言葉は頼もしく思うぞ、武成」
姜子蘭は臣下の意気を削がぬように言ったが、本心では盧武成を案じていた。しかし、そういう本心を顔に出せば盧武成への侮辱になると思い、その気持ちを呑み込んだ。そういう心配を表に出すのは、姜子蘭がすることではない。
「一度、武威で圧された敵に、一朝で勝てるようになるものかよ。そんなことは、武術に通暁しているお前のほうが、俺よりもわかっているはずだぜ。己の矜持のために主君に公算の低い誓言をするのは、あまりいい臣の在り方じゃねえな」
子狼は辛辣であった。しかし実際に、次に盧武成が共羽仞と戦って勝てるかどうかは分からない。盧武成自身、顓軍の将が退却を選んでいなければ、自分は死んでいたかもしれないと思っているのだ。
しかし子狼も、言葉では辛辣なことを言ったが、盧武成が意地や体面のためにこのようなことを言っているわけではないと分かっている。盧武成にとっては、自分の敗北よりも、敗れたために姜子蘭の役に立てなかった、ということが何より悔しいのだ。
「いいか、武成――いいや、盧氏よ。一騎打ちの勝敗も、戦の趨勢も、それはあくまで手段でしかないのだ。たとえ貴殿が次に共羽仞と相対して勝てたとしても、軍が敗れてしまえば意味はないのです」
子狼は、常ならば主君の前でも、盧武成に話す時には砕けた言葉を使う。しかし今は、丁寧な口調であった。そしてこの、悪童に兵法と詐略を詰め込んだような男にそう諭されては、盧武成は何も返す言葉がなかったのである。
「そうだな。我らの道は、まだ先が長い。此度のことには思うところがあろうが、私が武成に寄せる信頼は揺るがないぞ」
姜子蘭にそう言われたことで盧武成の心は少し軽くなった。まだ制周城、潁段城を落とさねばならず、その先には虢にいる顓との戦いもある。二人は、言い方こそ違うが、一度の負けに拘泥するなと諭してくれていた。
その時である。呉西明が駆け込んできた。
呉西明は沃周城における軍備を改つつ、制周城に放った密偵のまとめをしていたのだが、どうやら制周城に動きがあったらしい。そしてそれは、この場にいる誰にとっても慮外のものであった。
旭日を浴びながら、顓遜は、ひとまず追撃を退けたので、制周城へ馬を走らせていた。その横には、大剣を背負った隻腕巨躯の男、共羽仞がいる。
顓遜は共羽仞の名は知っていたが、実は、この軍中にいることは先ほどまで知らなかったのである。
知っていれば、死を覚悟して顓項と別れることはなかったであろう。
共羽仞は後陣におり、しかも兵糧を運ぶ荷車の上で寝ていたらしい。ここにいる顓軍の兵士には共羽仞の顔を知る者はおらず、怠惰な男だ、くらいにしか思われていなかった。
しかし、策に兵糧を使うと決めた顓遜は、そこに隻腕の男がいて驚いたのである。実は顓遜も共羽仞の顔は知らなかったのだが、誰何して、それが顓族に名を轟かせた名将だとわかると、驚いたとともに、
――再び顓項と見える日が来るやもしれん。
と思ったのだ。そして今、顓遜は、ただの一兵も失うことなく制周城に馬首を向けている。まだ自分には悪運がある、と思った。
さて、その共羽仞が制周城の軍の中にいた理由であるが、共羽仞には娘がおり、彼女が大病を患った。顓族の医術では救えぬが、虞に行けばあるいは助かるやもしれぬとの話を聞き、妻とともに、娘を連れて東に来たのである。
幸いにして名医がおり、娘は一命を取り留めたが、虞への旅で家財を使い果たしてしまったのである。途方に暮れていたところ、虢にいた知己から、制周城へ物資を運ぶ隊の護衛の仕事をもらった。ところが制周城について、その風土と、なによりも、北地にしかない酒が気に入った共羽仞は、虢に戻ることもなく、妻子を呼び寄せて住み着いたらしい。
「なるほど、大方は理解いたしましたが、そうであれば名乗り出てくだされば、たちまちに将軍になれたでしょう?」
「そんな気にはならんさ。制周は北の要といいながら、平和だったからな。それに、肉屋で屠殺をし、数年に一度の兵役に参じれば家族三人、食うには困らん。刺激はなくとも苦難もない、少し早めの余生をそれなりに満喫していたのさ」
「そういうものですか?」
「ああ。別に俺は、荒事が好きなわけではない。毎日、酒を呑み、たまに良い肉を食い、後は――娘を満足のいく男のところに嫁に出せれば、他に望むことなどない」
顓遜には、その心境はなんとなくわかる。顓遜としても、あのまま死ぬまで、酒を呑み、賭博に耽り、顓項と六博を打っていたかった。顓項にしても、北岐山を日がな一日眺めながら、城民にとって毒にならぬ程度の怠惰な城主として一生を終えたかったのであろう、と思う。
しかし、時代はそれを許してくれない。そう思うと顓遜は、弱音を吐いたり投げ出すことはないが、少しだけもの悲しくなった。
だが今は、そのような感傷に浸っている余暇はない。共羽仞という猛将が居合わせた僥倖によって命を拾った以上、顓遜は一刻も早く制周城に戻り、軍師として顓項を支えねばならないのだ。
しかし、制周城までもうあと十里(約五キロ)というところまできて、そこで顓遜は、意外な人と会った。顓項の家宰である妙齢の女性、紀犁である。紀犁は、顓遜の顔を見て安堵を浮かべると、次に、深刻な面持ちを浮かべた。
顓遜は、嫌な予感がした。そしてそれは、的中することとなる。紀犁は、重苦しい声で、顓遜に告げた。
「……制周城は、すでに落ちました」




