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春秋異聞  作者: ペンギンの下僕
三秧連衡
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退き戦の要訣

 糧袋から噴き出した炎は、わずかであるが盧武成の体にも届いた。纏っている外套で顔を覆いはしたが、それでも、飛び散った粉塵のために視界が悪くなる。


「全軍、退け!! 伏兵に備えつつ、来た道を引き返せ!!」


 他の兵士たちも、火の被害こそ受けていないが、粉塵と煙で目や喉をやられている。これでは戦いにならぬと、盧武成は即断した。


 ――まったく、恐ろしいことを躊躇いなくするものだ。


 顓遜が行った策は、ただ糧袋に火をつけたというだけではない。糧袋を竈のように積み上げて組み、空になった中央に米をばらまく。その上に火をつけた炭を置いて、空気が入らぬように上から糧袋で蓋をしたのである。

 こうすることで、米は閉ざされた糧袋の囲いの中でじわじわと燃え広がる。そして、矢の雨によって蓋をしていた糧袋が破れ、空気に触れたことで、燻っていた火は爆ぜて、荒れ狂う炎へと転じたのだ。

 密閉されたところにある火は、空気に触れると爆ぜる。顓遜はそのことを知っていた。

 盧武成にもその知識があり、故に兵を退かせたのである。顓遜としては、敵が兵糧を積み込もうとした時に蓋となっている糧秣を動かせば損害を与えられると思っていたのだが、盧武成が意図に気づいたために、矢を射かけたのである。

 火で煽り、煙と粉塵でいぶした。ここで退いてもよかったのだが、顓遜はそうしなかった。

 それは顓遜の考えであり、そして、この殿軍にいるある男の言葉があったからだ。


『退き戦の要訣は、敵を叩くことにある』


 そう言った男は、今は前線にいる。顓遜は後方で戦況を見ていた。

 反抗の意志を見せることが撤退戦に不可欠というのは顓遜にも分かる。しかし、やりすぎてもいけない。その判断を下すためである。




 盧武成は兵たちに、慌てず少しずつ下がるように命じつつ、自らは戟を構えて前方を睨んでいる。

 未だやまぬ煙の中から、大きな影が躍り出た。巨岩が転がってきたかと思うほどの勢いであるが、しかしそこには同時に、研ぎ澄まされた鋭い殺気がある。そして、盧武成の首めがけて剣撃が放たれる。戟の刃で受け止めたが、手がしびれ、跨っている饕朱ごと後方へのけぞらされた。


「おう、貴様がこの軍の将と見た。まだ若造だが、尋常ならざる闘気だな」


 黒馬の上から声が響く。彫の深い顔立ちの、巨躯の壮年の男のものであった。盧武成も七尺九寸(約186センチ)で長身であるが、ざっと見てもさらに五寸(13.5センチ)は高く、しかも鍛え上げられた腕は、(えんじゅ)のように太い。

 手には大剣を持っており、盧武成は、かつて戦った魏氏の将、蒋不乙(しょうふいつ)のことを思い出した。しかし先ほどの一撃の鋭さ、重さたるや、その非ではない。

 そして最も大きく違い、盧武成を驚愕させたことがある。この男には――右腕がないのである。


「……虞の王子、姜子蘭が臣、盧武成だ。そちらも、顓の名のある将とお見受けするがいかがか?」

「いいや、ただの雑兵さ」


 隻腕の男は不敵に笑った。しかし、地位があろうとなかろうと、この男が並外れて強いということは分かる。隻腕という欠損を抱えながら、この男は不自由さをまるで見せない。平然と馬に乗り、両手であっても扱いに難儀するだろう大剣を容易く扱っている。

 隻腕だからと侮ることは出来ず、むしろ、そうであるが故に、左腕一本で戦うことを極めた強者であると盧武成は見た。


「雑兵とて名はありましょう。この若輩が名乗ったのですから、そちらにも名乗っていただきたい」

共羽仞(きょううじん)だ。大した武功にはならぬが、一つ、手合わせ願おうか!!」


 そう叫び、隻腕の男――共羽仞(きょううじん)は馬腹を蹴る。鈍重な大剣が、空気を引き裂いて振り下ろされた。辛うじて目で負える速さであり、戟で受け止めることは出来たが、一撃を受け止めただけで手に痺れが走る。盧武成は両手で戟を操っているが、その膂力は共羽仞の左腕一本に劣るらしい。

 共羽仞の大剣は、牛の重さを持った敵が、(はやぶさ)の速さで突撃してくるようなものである。(つよ)く、そして(はや)いのだ。

 そしてもう一つ、盧武成が舌を巻いたのは、その馬術である。

 隻腕で、片手に大剣を持っている以上、手綱を握ることは出来ない。しかし共羽仞は馬腹を蹴り、時折、口笛のようなものを吹いて合図するだけで、馬を巧みに操っている。

 盧武成とて、馬の足を止めて戟を操る時には手綱から手を放しているが、馬を動かす時には片手を離して手綱を握りなおしている。戦いの最中、少しも手綱を握らずに馬を操るというのはそれだけ高度な技なのだ。


 ――相当に馬と呼吸を通じ合わせているな。ならば狙うは、馬と、奴の右側だ。


 右側とは、共羽仞のないほうの腕である。それを狙うことを卑怯だと、盧武成は思わない。むしろ、その弱点を突かねばならぬほどに、共羽仞は難敵なのである。間違いなく、ここまで盧武成が戦ってきた敵の中で最強であろう。

 そして、共羽仞は盧武成の狙いも容易く読んでいる。その大柄で豪放な見た目に反して、馬を躍らせることが実に巧緻であり、なかなか盧武成に自身の右を取らせなかった。そして、回り込めたとしても、隙を晒しているはずの右側から放たれた戟の一突きを、容易く防いでしまったのである。

 共羽仞は隻腕になってから長く、その間、何度も戦場に出てきた。敵は当然ながら共羽仞の右を取ろうとしてきて、その度に防ぎ、打ち斃して今日にいたる。むしろ、自身の右にいる敵との攻防は手慣れたものであり、得意でさえあった。

 顓軍の兵も、盧武成率いる夏羿族の兵も、二人の戦いに手出しできずにいる。元々が狭隘な山道を縦横に使って、二人の猛将が戦っているために、前に出ることが出来ないのだ。


「どうした、虞の将というのは、俺のごとき雑兵一人まともに殺せぬほどに貧弱なのか?」

「……貴殿が雑兵を名乗るのは、犬の値で牛や羊を(ひさ)ぐようなものでしょう」

「そう買いかぶるな。俺ていどの腕の者など、顓族には星の数ほどいるとも」


 それはおそらく嘘だろうと思うが、盧武成が口にすることはない。

 しかし実際に、盧武成は難儀していた。この場は退くことに異論はないが、しかし盧武成は殿(しんがり)として共羽仞を、討ち取るまではいかずとも、せめて傷くらいは与えておく必要があった。

 武勲に逸るわけではなく、ここで盧武成が背を見せれば、数の有利などは消え、顓軍の手によって夏羿族の兵は潰滅すると分かっているからだ。

 しかし、今のところ、一縷の勝機も見いだせないである。盧武成は、渇いた舌打ちを漏らした。

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