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春秋異聞  作者: ペンギンの下僕
三秧連衡
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棄糧の策

 顓項を逃がした顓遜は、残った三百の兵を見た。

 まだ敵は迫っていないが、追撃がないということはあり得ない。その顔を一人ずつ眺めながら、顓遜は胸が軋むのを感じた。

 兵の多くは自分よりも年長である。彼らの多くには、妻があり、子があるのだ。

 しかし彼らが生きて家族の下へ帰れる望みは少ない。ただ自分が死ぬことよりも、その重圧が、顓遜を苦しめた。

 それでも彼らが逃げ出さずに殿軍にいるのは、迫る敵を防がねば、制周城にいる家族に危機が及ぶと思っているからである。


 ――一人でも多く、制周へ返してやりたい。


 という想いはある。しかし、無双の将が率いる強兵を前に、余計なことを考えれば、あっさりと三百が潰滅の憂き目に遇い、先に逃がした兵たちさえも制周城に届かないかもしれない。顓遜としては、ここは情を殺し、この三百の兵をすべて使い潰してでも、顓項とその兵を生かす道を考える必要があった。

 そのために何をすべきか。顓遜は、これまでに読んだ兵書の知識を頭の中で総覧した。

 軍師を名乗りながら、ここまで、ただの一勝もしたことがない。それでも、この場を指揮する者は顓遜の他にいない。

 何か使える物はないかと考えて、顓遜は軍中を見回す。

 すると、その後方に、三十台を越える荷馬車があった。潁段城への救援の物資を積んだものである。後陣において守っていたが、迅速を要する顓項らにとっては不要であり、そのまま残されたものだ。

 今の殿軍においても、とても守り切れるものではなく、といって、敵にむざむざ渡すのも惜しいものである。ならばこの場で焼き捨てるべきなのだが、


 ――これは、使えるやもしれん。


 顓遜は、そう考えた。

 ひとまず顓遜は、平野を避け、山道まで兵を退かせた。そこで、隘路(あいろ)を選んで、米のはいった糧袋を車十台分、道の中央に捨てさせたのである。そして、空になった車はその場に放置した。

 しかも捨てた糧袋の横には、わざわざ松明を括りつけた棒きれを立ててある。それはまるで、これから迫りくる盧武成の軍に、拾ってくれと見せつけているようであった。

 事実、それを拾わせることが顓遜の狙いなのである。


 ――奴らが北狄なのか、あるいは本当に虞の王子の軍なのかは分からない。だが、北地を越えてきたのであれば、兵糧が余っているということはあるまい。


 であれば、策略だと分かっていても、労せずに兵糧が手に入るとなれば捨て置けないと顓遜は踏んだのである。




 兵を休ませ、追撃を始めた盧武成は、狭まった山道に山と積まれた糧袋を見て馬を止めた。

 おそらく敵が捨てていったものだろう、ということは分かった。しかも、それを運んできたであろう荷車は、空のままに捨ててあるのである。そして、これを除かぬ限り先にも進めないのだ。


「どうする、允綰? これをどけていては、時の浪費だ。だが我らはこのあたりの地理に疎く、下手に迂回すればかえって危地に陥るやもしれん」

「ふむ、まあ、馬術に長けた我らであれば、踏み荒らして越えていくことは出来るやもしれませんが――それは少々、惜しくございますな」


 惜しいというのは、無論、これだけの兵糧をむざむざ大地に食わせることが、である。そしてそれこそがまさに敵の策なのだと盧武成はすぐに理解した。

 わざわざ車を残したのは、積んで運ばせるためであろう。騎兵しかいない盧武成たちにとって、糧袋だけを捨てられていれば、運ぶ術がないので躊躇いなく踏み荒らしていた。しかし、運ぶことが出来るとなれば、欲が湧く。

 こういう局面で即断できぬのが、盧武成のまだ将として若いところであった。

 武勇については疑うべくもなく、また、生死を分ける乱戦の最中では少しの逡巡もないが、考えるゆとりがあると、色々と考えてしまうのである。

 だが盧武成は、


 ――迷った時点で、敵の策に乗せられたも同然だ。ならば、せめて兵糧だけでも収めておこう。


 と決めて、兵に命じ、荷車に糧袋を積ませた。

 四半刻(三十分)ほど経って、ある程度、道が開くと、盧武成は兵を三十だけ残して追撃を再開した。

 といっても、その四半刻の間に、顓軍はかなりの距離を逃げたことだろう。山を越えても敵影が見えぬようであれば引き返そうと、盧武成はそう決めていた。

 そうしてさらに一刻(二時間)ほど進んだ。ようやく道が少しずつ広くなってきたところで、ふたたび、明かりが見えた。先ほどと同じように、打ち込まれた棒に松明が括りつけてあり、地に散乱した糧袋の山と、空の荷車があったのである。


 ――またか。


 機転というものがなく、単純ではあるが、確実にこちらの足を止められる策である。敵の腹を満たすこととなっても確実に逃げ切ると割り切っている敵を、これ以上追うのは不毛だと盧武成は感じた。

 ここにある兵糧を持ち帰り、潁段城を囲んでいる姜子蘭の陣に戻ったほうがよい。そう考えて兵糧に近づいた、その時である。

 穀物の焦げるような異臭が、盧武成の鼻腔をついた。

 それが何であるかを悟った盧武成は、兵に向けて叫ぶ。


「下がれ、退け!! あの糧袋の山から離れよ!!」


 これまで戦場で如何なる強敵、大軍と対峙しても動揺を見せることがなかった盧武成であるが、今はその眼に血光が走っている。何が起きているかも分からぬままに、しかし命じられた通りに兵たちが下がろうとした、その時である。

 矢の雨が、糧袋の山めがけて降り注いだ。瞬間、糧袋が爆ぜ、中から炎の柱が吹き上がったのである。

 白みがかっていた空は、日の光よりも先に、炎によって赤く染められた。

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