城主の敗責、軍師の敗責
盧武成の一突きによって落馬した顓遜項は、身を守る得物の一つもなく、無二の剛将たる盧武成に無防備を晒すこととなった。
だが盧武成は、饕朱の上から見下ろすことはすれど、その命を奪おうとはしない。
そこに馬蹄が響く。顓遜が迫ってきていた。
――何故かはわからぬが、殺気が消えた。
そう感じた顓遜は、甥を救うため、馬を走らせたのである。そして顓項に近づくと飛び降りて、顓項を自身の馬の尻に乗せると、自身も再び馬上に身を翻して走り去ったのである。
そうして、叫んだ。
「此度の戦いはこちらの負けだ!! 制周城へ退くぞ!!」
この軍において、顓遜は顓項に次ぐ地位である。その命とあって、兵は素直に従った。
逃げ去っていく顓軍を、盧武成はすぐには追わなかった。そこへ允綰がやってくる。
「追わずともよろしいのですかな?」
「暫し、兵を休めます。我らとて、まだ万全とは申せませんので」
焦って追撃するな、というのも子狼の下知である。人は逃げられぬと悟れば死に物狂いで抵抗するが、退路に光が差せば、そちらに向かってひた走るものである。此度の戦いは殲滅が目的ではなく、そもそも子狼は、戦いにおいて、鏖殺というものを目標とすることはない。
「ところで盧氏よ」
允綰の声が柔らかくなる。先ほどまでは一軍の副将か、一家の老家宰のような引き締まったものであったが、それが今は、田舎の農夫のように穏やかなものとなったのである。それがかえって、盧武成に痛心を与えた。
允綰が今から言わんとすることが、分かるからだ。
「先ほど、あちらの若き将に手心を加えられたのも、軍師どののご差配ですかな?」
「……まあ、はい。あの少年は、どうも顓軍の大将のようでございました。その者を殺されたとあらば、敵は仇を討つと意気込んで不退転を決めて向かってくるでしょう。そうなってしまえば、数で劣る我らに勝ち目はありません」
盧武成の言には一応の道理があるが、それは今この場で考えた陳弁であり、顓項と相対した時には少しも考えていなかったことである。
盧武成はいざ顓項と向き合って、殺せなかったのだ。
それはまだ自分よりも年若い少年だということもあり、蒼い双眸と目が合ってしまったからでもあり、そして――弱年の身で一軍の将としてある顓項に、主君たる姜子蘭を重ねてしまったからである。
そんな盧武成の胸中など允綰は察しており、その上でからかって楽しんでいるのだ。
そして、見透かされているとまで分かっているからこそ、盧武成は余計に気まずい。
しかも允綰は、盧武成の言葉に、もっともらしく頷いた。いよいよ胸のあたりが軋むのを感じた盧武成は耐えきれずに、
「思うことがおありなら、この若造に老練の知見をいただきたい」
と、言った。
允綰は白髪ひげを撫でながら、目だけで笑った。
「そうですな。北狄の老骨として愚見を申すのであれば、世に常勝無敗の将はなく、千慮に一失なき智者などおらぬ、というところでしょうか?」
允綰からすれば盧武成は、なるほど豪勇には並ぶ者がなくとも、将としてはまだまだ若い。十九であるので当然ではあるのだが、それを抜きにしても盧武成は、姜子蘭の臣として無欠であらねばという気概が強い。
そんな若者に、人生を経れば誰しもが失態や挫折に直面するということを知ってほしい、というのが允綰の想いであった。
そして、次の朝日が昇るほどの時に、允綰の老婆心は天に届くこととなる。
顓項が意識を取り戻したのは、揺れる馬上でのことである。まだ頭が冴えず、腹の辺りに油を甕ごと呑み込んだような不快感があった。だがそれよりも、生きていることのほうが不思議である。
「……間違いなく、死んだと思ったのだがな」
「童首は手柄にならぬと思われたのではないか? だからといって殺さなかったのは不可解だが、僥倖だったと思っておけ」
顓遜は手綱を握り馬を走らせていたが、顓項の意識が戻るとその足を止めさせた。
そして、周囲を見回す。制周城の顓軍の多くの部将が討ち死にか、負傷していた。狡猾で、目敏く、そして利巧な敵であると顓遜は、悔しさを覚えるとともに、その手際に感心もしていた。
「よし、先の戦いで後陣にあった兵、三百だけ残れ。後の兵は――城主を制周城までお連れせよ!!」
「……季父上?」
聞いたことがないほどに鋭い声に、顓項は狼狽えた。
そんな甥を安堵させるように、顓遜は笑貌をつくる。
「この待ち伏せは予想できるものであったが、俺は備えを怠った。此度の敗戦は俺の責であり、軍師として、その咎を贖わねばならない」
「いいえ、軍を急がせたのは私です。私が……」
「お前は城主としての務めを果たせ。ここで死ぬのは、逃げることだぞ」
言葉は厳しく、まだ十三の少年には重すぎる言葉であった。しかし顓項には、その重責を背負って進む義務がある。それは顓遜には肩代わりできぬものであった。
「……分かりました。制周城で、お待ちしております」
顓項は、震える声で言った。互いに、おそらくこれが最後であろうと予感していたが、それでも、言わずにはいられなかったのである。
「まあ、近頃はお前の六博の腕も上がってきたからな。一敗をつけられる前に、勝ち逃げさせてもらうとしよう」
そんな僅かな望みを、顓遜はからりと笑って切り捨ててしまった。
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