攻城兵器
後の世に「姜子蘭の北扇陣」と呼ばれるこの大がかりな行軍は、姜子蘭たちの心身を大いに疲弊させた。
苦難に耐える強さを持つ姜子蘭であっても、盧武成と子狼だけには、叶うならば二度としたくないと言わしめるほどである。
盧武成にしても、泣き言とは無縁であるこの男をして、十万の敵を一人で斃せと言われたほうがまだ気楽だとこぼした。
子狼に至っては、このような蛮行を策として主君に出した自分の不明を恥じる、とまで言ったのである。
そういう調子であるので、二月ぶりに再会した君臣の空気は、澱んでいて、どこか重苦しい。
活気が欲しい姜子蘭は、子狼に何か歌ってほしいと頼んだ。しかし子狼は、今日はご勘弁をとやんわりと断ったのである。
聞けばここ半月ほど、子狼が歌を口ずさむことはなかったらしい。
平和でよいことだが、同時に、常に飄々としている子狼でさえも、疲弊しきっているということでもある。
しかし軍の責任者である彼らは、どれだけ疲れていようとも、向後のことについて話し合わねばならなかった。
「我らは今朝こちらにつき、一日は休ませました。ですが、もう一日の休息を与えても大丈夫でしょうか?」
「ああ、問題ない。私たちも二日は休んだ。ここで無理を強いるのは酷であろう。今は存分に休み、鋭気を研いでもらうべきだ」
「ただし歩哨と斥候だけは欠かすなよ。制周城の顓族に見つかってしまえば、二月の苦労が水泡に帰す」
姜子蘭の言葉に補足をしつつ、子狼は地図を広げる。向後の策について、この場で説明するためだ。
そこには制周城、沃周城、潁段城という、いわゆる北岐三連城があった。子狼はそのうち、西にある城、沃周城を指さす。
「まず狙うはここでございます」
「なるほど。東西の支城を削ぐことで制周城を丸裸にするつもりだな」
盧武成は子狼の意図をそう解釈した。子狼は含み笑いを作って話を続ける。
「さて、我らは騎兵が大半でございますので、城攻めのための兵器を作らせねばなりますまい」
「兵器とはなんだ?」
子狼の口から耳慣れない言葉が出てきたので、姜子蘭は盧武成のほうを見る。だが盧武成も、困ったような顔をした。
城攻めに用いるものといえば、城壁に掛けるための長梯子や、門を破るための巨大な木杭などである。
子狼はそれについて説明するために、懐から布製の巻物を取り出した。そこには複数の図面と、文字が掛かれている。図面のほうは、車輪のついた移動式の櫓のようなもの、巨大な梯子を取り付けた大型の車などだが、そこに書いてある文字を、姜子蘭は読むことが出来なかった。
「子狼、なんだこれは? 迒字の書など、どこで手に入れた?」
盧武成はこの字について知っているようだが、それでも珍しいようである。
「そうか、この字はそういう名なのか。ところで武成よ、その迒字ってのはいったいどこの国の文字なんだ?」
「……知らないで、よくああも自慢気に取り出せたものだな」
盧武成は呆れたが、子狼とて虚勢でしたり顔をしたわけではない。その文字が何であるかさえ知らないが、子狼は数年かけて少しずつこの文字を解読したので、ある程度は読むことが出来るのだ。
「この書はその昔、霊戍に住む老爺から譲り受けたものでございましてな。不思議な書でございますが、おそらく城攻めのための大きな器具の図面であるということだけは分かり、図を頼みとしながら少しずつ読み解いてきたのでございます」
それが子狼の言い分だが、何とも眉唾な話である。しかし実際にその書があるので、手に入れた経緯は疑わしくとも、兵器なる攻城装置の存在については二人とも納得した。
「ですが、どうやら武成はこの文字のことを知っているようですので、まだ読めておらぬところを地道に翻訳する必要もなさそうです」
「俺を頼みにされても困るぞ。そういう古字があるとは知っているが、俺とてほとんど読めん」
媚びるようにすり寄ってくる子狼の期待を、盧武成はばっさりと両断した。
「そもそも、迒字とはなんなのだ?」
「父曰く、焱朝がまだあった頃の文字とのことです。迒とは獣の足跡の意であり、鳥の足跡を象って作られたが故に迒字と呼ばれているのだそうにございます」
姜子蘭は盧武成の知識を素直に感心していたが、子狼のほうは、盧武成の父の知見のほうが気になった。
「お前の御尊父はご存命か?」
「ああ。どこにいるかは知らないが、まあ生きているだろう。それがどうした?」
「もしお会いできる機会があれば、是非とも師事してみたいものだと思ってな。しかし本当に、博識であらせられるな。それとも史氏の蔵書にそういうものがあったのか?」
「さてな。まあ、東遷で散佚したものも多かろうが、あったのだろうさ」
唐突に、虞の名家たる史氏のことが出たので、姜子蘭は不思議そうな顔をした。盧武成は低い声で、
「私の父はかつて、史氏の下で学んだことがあったそうでございます」
と、説明した。
生家の話になると、盧武成は途端に不機嫌そうな顔になる。子狼にしても、今の本題はそこではないため、書を指して話を続けた。
「今からこちらの、井蘭車というものを作らせます。高さは城壁まであり、中に階段をつけて、兵士が昇り、この上から梯子を城壁に掛ける移動式の櫓のようなものでございましてな」
「待て子狼。確かにそのようなものがあれば城攻めの助けとなろうが、そんな大がかりなものを作るには木材も足りないし、何より技術がおいつかないだろう」
夏羿族にしても維氏の兵にしても、元は山間の民なのだ。いかに図面があるといっても、このような精巧で大規模な物を造るには技術者というものが圧倒的に足りない。しかし、そんな指摘など当然、子狼は想定済みである。
「お前はいちいち、俺の策を手早く責めるなよ。俺が何のために策を出し惜しんでいると思っているんだ?」
子狼は、すでに心の中で完成した井蘭車を思い浮かべて胸をときめかせている姜子蘭を横目で見た。
盧武成の言うことは正しいのだが、子狼としては姜子蘭の口からその指摘を聞きたかったのである。
「……どういうことだ? これを作るのではないのか?」
「はい、作りますとも。ですが武成が申した通り、それを作るには木材と人が足りません」
ならばどうするのか、と子狼は言外に問いかける。
子狼としては、姜子蘭には臣下の言葉を鵜呑みにするだけの君主になって欲しくはなくてこういうことをしているのだが、しかし同時に、考え込んでいる姜子蘭を見ている時の顔は無邪気な悪童のようであった。




