カオヤンの裔
陣中で歌っていたその兵士は、名を夷蒙というらしい。
ちなみにここで夏羿族の名について説明しておくと、彼らには氏姓というものはなく、字もない。大陸での言葉で説明すれば諱以外に己を現すものを持たぬのである。
その夷蒙であるが、盧武成を前にしても平然としており、表情の読めない顔のままに、
「陣中で歌うことは、何か軍紀に触れますか?」
と聞いてきたのである。
盧武成は否定した。見れば、夷蒙の歌を聞いた兵士たちは、郷愁に駆られることもなく、顔に覇気がある。なんであれ、西を目指すための心の支えになるのであれば、今はそれでいいのだ。
それから、行軍中や夜営の折に、兵士たちはこの歌を口ずさむようになった。
盧武成は歌うことはなかったが、毎日耳にしているので、否が応にも覚えてしまう。そして頭の中で追想すると、その歌詞はとても予言じみているのだ。
ある夜、気になった盧武成は、允綰を呼んだ。
「あの歌を聴くと、夏羿族は元は南に住んでいたようですが、そうなのですか?」
「さて、私には分かりませんな。ですが、大陸――我らは中原と呼んでいるのですが、そこでは太古、統治者の交代があったのでしょう。天が変われば、昨日までの安息の地に住めず、流浪することもありましょう」
今の王朝、虞は、かつて焱という王朝を倒して興ったものである。焱の遺民が北に流れたというのは、たしかにあり得る話であった。
「ではもう一つ。カオヤンの裔というのは、いったい何を指しているのでしょうか?」
夷蒙の歌は、途中までであれば、かつて王朝交代の際に故郷を捨てざるを得なかった民の哀愁である。しかし最後の一節、“カオヤンの裔訪れて 我ら再び中原を見る”というところを聞くと、一気にそれが予言めいたものに思えてくるのだ。
夷蒙に聞いても、分かりませんとしか答えなかった。彼に歌を教えた父も知らなかったらしく、歌だけは残ったものの、その真意は時の流れの中で失伝してしまったようだ。
「さあ。私も初めて聞きました。ですが、もしこの歌が予言だとすれば、今まさにそれが果たされようとしているとは思いませんかな?」
「そうだとすれば、カオヤンの裔というのは虞王の縁者、より広げるとすれば、姜姓の者ということになるのですか?」
盧武成にとって、この軍の将は姜子蘭なので、盧武成はそう考えた。
だがそうなるとおかしなことになる。はじめの推論である、焱の遺民がかつての住処、中原を放逐されたことを嘆いているのであるというのが正しいのであれば、その子孫に再び中原を見せるのが、彼らを追い出した虞王の縁者であるというのは奇妙な話であった。
「そのカオヤンというのは、貴方のことではありますまいか?」
允綰は、じっと盧武成の顔を覗き込んだ。
「それはありますまい。話しておりませんでしたが、実は私も姜姓でしてな。これでもいちおう、虞王の孫なのです」
「なるほど。盧氏にも色々とご事情がおありのようですな」
允綰は言葉に含みを持たせた。といって、それ以上の詮索をすることもなく、夷蒙の歌についての話はこれで終わりとなった。
そして――常山城を出てより六十日の長きの果てのことである。
遥か高く、青雲を越えて登った先に、ついに盧武成とその率いる夏羿族の兵たちは、天険の長城というべき北岐山の嶺より、虞王領の最北端、制周城を望むに至ったのである。
誰も彼も、長きに渡る辛苦にまいっていたが、しかし、大陸の果てまでも見渡せそうな蒼天を前にして、感慨のほうが優っていたのである。
東の空にある旭日は、矢を放てば射抜けそうなほどに近く感じられ、それ故にその熱は、身が焼かれるほどに熱い。この広い天地に、自分たちよりも天に近い者はいないだろうと、誰も彼もが感じていた。
無骨な盧武成であっても、今、その総身にある震えが、疲れからくるものか、それとも、苦難を越えた先の感奮なのかが分からないでいる。
だが、ひとしきり感動を味わうと、盧武成はすぐに将としての己に思考を切り替える。
主君たる姜子蘭たちが今、どのあたりにいるのかを探らねばならなかった。
何人か人を出さなければと思ったが、
――流石に、早くとも明日だな。
軍の状態を見て、今日はとても、誰も彼も動けはしない。その日は、盧武成は兵を休ませることにした。
だがその日の夜、二つの馬影が盧武成らの陣門を叩いた。姜子蘭からの使者ということであり、盧武成が応対しようとすると、なんと姜子蘭が子狼を伴ってやってきていたのである。
「流石の武成でも、少し痩せたか?」
いきなりそう声を掛けられて、盧武成は眦を細めた。
「……いえ。我が君のほうこそ、ご無事で何よりでございます」
姜子蘭は、確かに四肢に欠けたところはないが、それでも相当にやつれていた。盧武成を気遣って気丈に振る舞ってはいるが、疲れの色がありありと出ている。
そのような状態の主君に、ここまで微行させてきたことを責めようと、子狼のほうを見る。
しかし子狼のほうも、まるで冬の枯れ木のような精気のなさであったので、怒りをぶつけることはおろか、嫌味の一つも言えなかった。




