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春秋異聞  作者: ペンギンの下僕
南愁公路
156/168

南愁之詩

 姜子蘭はついに、西に向けて動き出した。

 北岐山脈が道なき道とは話に聞いているが、そこへ向かうまでにも平地などは無く、ひたすらに峻険な山岳地帯が続いていたのである。

 まず一行を待ち受けていたのは岩山であった。北地の民であっても騎馬で駆け上れぬほどに垂直なそこを、将兵は、まず自分が崖を登り、馬を乗せられる足場を見つけると、数人がかりで馬を引き上げるのである。

 こうして、まず五十ほどの兵士が先遣隊として向かった。

 この隊の中に楼盾もいる。このあたりはまだ維氏の領に近く、多少の土地勘はあるからだ。

 だが、この先遣隊の任というのは、苛烈の一言では足りぬほどに壮絶を極めた。彼らの第一の任務は、まとまった人数が休息をとれる地を見つけ、後続に報告することであった。

 当然ながら、四千人が同時に休めるようなところなどない。軍を細かくわけ、少しずつ歩を進めてゆくしかないのだ。


「子狼。兵を二手に分けて北岐山脈を目指したほうがよいのではないか?」


 姜子蘭の言葉に子狼は難色を示した。しかし、その諮問には道理がある。

 現況があまりにも遅々としており、兵糧が持つかどうかが怪しいのだ。その報告は呉西明からもあげられており、それ故に子狼は頭を悩ませた。

 だが、ただでさえ地理が明らかでない地を二手に分かれてしまえば、変事が起きた時に取り返しがつかなくなる。最悪の場合、北岐山についた時には、兵力が半減しているおそれもあるのだ。

 姜子蘭としても子狼の葛藤は分かる。

 だがここは、主君としての強権を用いることにした。慎重を期しながら拱手して、飢えと戦うことになるのを恐れたからである。

 今の先遣隊が向かっている経路には盧武成と脩が。

 もう一つ、新たに進む経路には姜子蘭、子狼、呉西明が向かうこととなった。

 盧武成たちには夏羿族の兵を多くし、姜子蘭のほうには維氏からの兵を多くすることとなった。これも、軍中での諍いを避けるための処置である。


「では、武成、脩。次に会う時は北岐の山嶺だな」

「はい。我が君におかれましては、どうかその道中に天祐あらんことを――」


 武成は拝手した。それに対して、姜子蘭は少しだけ顔に翳りを見せたが、


「そうだな。それに私には、天の利よりも、地の険しさよりも、優れたものがある。子狼と呉西明がいて、維少卿の下で鍛えられ、しかも志願してこの征西の旗下に参じてくれた兵たちがいれば、命の心配をせずともよいだろう」


 と、屈託なく返した。

 こうして一時的に盧武成たちと別れることになった姜子蘭は、道を変えて西を目指した。行けども進めども、艱難は終わらない。峨々たる稜線を進み、暗澹たる峡谷を越え、梁の上を進むような行為を続けなければならない。

 ただし維氏の兵らは、姜子蘭が語った通りに頼もしかった。このように神経を尖らせながらの行軍であれば、夜風に乗って聞こえる虎狼の声は兵士たちの肝胆を凍らせるものだが、彼らの場合、食事に肉が増えると、勇んで狩りに行くことのである。

 時には姜子蘭も、無論、呉西明が護衛についてはいるが、兵らに同行して虎狩り、狼狩りに赴くこともあった。

 そんな行軍の中で姜子蘭は、ふと気づいたことがあるのだが、子狼は、狼狩りには決していかず、振る舞われても狼の肉を口にはしないのである。別に他の兵士たちが狩り、その肉を食すことに異論はないが、かつて狼に一命を救われた身には思うところがあるのだろう。


 ――それに、狼は子狼の(あざな)にも含まれている。それを食すは不吉だ。


 そう考えると子狼は、その(あざな)は父の維弓の命で改めたのであるが、向後、狼肉を食さぬことで山野の霊に報いさせんとの意味を込めてそうさせたのかもしれないと、姜子蘭は思った。




 姜子蘭たちと別れた盧武成と脩も、その道のりは当然のように厳しいものであった。ひと月を過ぎたあたりから、姜子蘭の一行の中では、実は子狼についで多弁な脩からも、必要でない言葉は削ぎ落されていった。

 しかもこの軍の将というのが、寡黙で無骨な盧武成なので、倦怠も相まって、軍の雰囲気は自然と陰鬱としたものとなってきた。


「……こうなると、子狼のあの下手くそな歌でも少しは恋しくなってくるね」


 脩が小さくこぼした。盧武成としては、たとえどれだけ追い詰められても、あんなものを懐かしむほどに憔悴したくはないと思っているのだが、歌というのは、軍に活気をもたらすためによいかもしれないと思ったのである。

 盧武成はそこで、允綰に聞いた。


「夏羿族にも、歌うという風習はありますか?」

「ええ、もちろん。大陸のお歴々が嗜むような風雅なものではございませんがな」

「兵らが明るくなるものであればよい。どうも、兵たちがここまでの道のりで歌を口にしているのを見たことないので、許しを出そうかと思うのですが、どうでしょう?」

「そうとなると、新しく作ったほうがいいでしょうな。従来の歌を口ずさめば、郷愁を覚えて、かえって心を弱くするやもしれません」


 允綰がそう言った時である。不意に、陣中が騒がしくなった。しかも、歌声のようなものが聞こえるのである。

 まずい、と二人が思って向かうと、そこでは一人の兵士が歌っていたのだ。


「我らの父祖は何処から来るや? 

 遥か遠く、南西より

 魂は北風に晒されるとも 赤心は南枝に棲む

 幾星霜重ねれば 黄土の大地に還れるだろう?

 懼れる(なか)れ 哀しむ(なか)

 カオヤンの(すえ)訪れて 我ら再び中原を見る」


 その兵士は、見ためは年若く、中性的で男とも女ともとれるような顔立ちをしていた。

 ここまでの道程を経ているため、その顔は塵埃で汚れているが、それでもなお、超然とした怜悧さを有しているのである。


「お前、その歌はいったい?」


 そう聞いたのは、盧武成でなく允綰であった。夏羿族である允綰も、どうやらこの歌は知らないらしい。


「父から教わったものです」


 その兵士は、短い言葉で返した。

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