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春秋異聞  作者: ペンギンの下僕
南愁公路
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徳と武辺

 孟夏の太陽が北地に差し込む。その熱はまだまだ寒風に流されているが、その下にいる兵士たちは、静かな熱気を有していた。といって、わかりやすい熱狂を見せているのではなく、誰もが、これから向かう地に対して有する恐怖と、それを越える昂然の気を抑えているのだ。

 この兵らは無論、姜子蘭が顓族から虞王を救うための軍である。

 彼らはこれから、北岐山脈を目指し、虞へ向かう。この道中といえば、山間に棲み、道なき道を騎馬を以て平然と踏破する北地の民であってもなお未踏の地なのである。自分たちがこれから、かつて誰もなし得なかった険路の先駆者になるのかと思うと、その心は否が応にもときめいていた。

 さて、その軍というのは、夏羿族二千五百、維氏からの志願兵千五百からなる、総勢四千の軍である。弱冠十四の姜子蘭が彼らを率いて西を目指すのだ。

 率いるといっても、維氏の兵はともかく、夏羿族はその大半が盧武成の武に心酔している者である。先の常山城の戦いでは、子狼の知略があって宿敵である勲尭族の神皇の軍を打ち破れたこともあり、子狼の才知に一目置く者もいるが、姜子蘭のことを軍の統率者として認めている者などほとんどいない。

 盧武成、子狼という二人が姜子蘭を君主として奉っているため、形式上、それに従っているに過ぎない。

 そして誰よりも、姜子蘭がそのことを自覚していた。


「艱難を共にしただけで尊敬を集められる、などとは、私の考えは甘かったな。いいや、別に敬意や忠心など抱かれずともよい。どうあれ、彼らは私とともに西へ来てくれるというのだ。私は夏羿族の諸人に、いずれ、友か仲間だと思ってもらえれば、それだけでよい」


 それを聞いた盧武成は、


「謙虚も過ぎれば悪徳ですぞ」


 と、諫言した。


「分かっているよ、武成。前にお前に言われたことなら覚えているさ。私の心境としては今の言葉に偽りはない。だが――」


 姜子蘭は声から明るさを削いで、眉宇を険しくした。


「将としての重責から逃げるつもりはない。彼らがこの先で受ける艱難辛苦、そしてすべての死について、すべての咎は私にある。そのことについては、重々承知しているよ」


 初陣の時、戦場の残酷さに動揺を見せた時に、盧武成は姜子蘭に言った。虞のための戦を起こすのであれば、数多の兵が死に、その責は姜子蘭一人に帰結するのだと。姜子蘭はこれまで一度も、その言葉を忘れたことはなかった。


「だからこそ私は、彼らのことをより深く知りたい。いいや、知らなければならないと思っている。我が大願が果たされた時、何をすれば北地の兵に報いることが出来るのかを分かっておかなければならないだろう?」


 それが姜子蘭の覚悟のほどであった。

 その話をしたのは、出陣前日のことなのだが、その日――つまり、出陣前夜に、姜子蘭の臣らが集まって呑むことがあった。これは姜子蘭が命じたことであり、


「私の臣となって長い者もいれば、日が浅い者もいる。ここから先は憩える夜がどれだけあるか分からないのだから、今のうちに親睦を深めておくように」


 と言ったのだ。もっとも、それを命じた当の姜子蘭はというと、主君たる自分がいると忌憚なく話せないだろうと言って、脩とともに夏羿族の下へ行った。そちらでもやはり宴会が開かれていたのである。

 この場にいるのは盧武成、子狼、呉西明、楼盾、そして何故か、夏羿族の老将たる允綰である。

 だが誰も允綰のことを拒みはせず、粛々とした酒席が始まる。

 取り留めもない話をいくつかする中で、昼間、姜子蘭と盧武成がしていた話のことを允綰が持ち出した。聞かれていたのを知って盧武成は愠色を示したが、允綰は構わずに話し続ける。


「あなた方の主君というのは、なかなか奥深い少年ですな。我ら北地の長であれば考えぬようなことを考え、悩まぬことを悩む。それ故に、我らには分からぬことが分かり得るかもしれないとも思います。それとも姜どのに限らず、大陸の王侯というのは、すべからくああいう人なのかな?」


 その問いかけに答えたのは、この場で一番年若い楼盾である。


「まさか。私としてはむしろ、強き者が上に立ち、誰に従うもその者の自由であり、故に死んだとてその責は従える者でなく、従うを決めた者に帰するという理屈のほうが分かりやすくて好みです。王子のお考えはご立派だと思いますが、将というのは人の生死に対して、少しくらい鈍いほうがよいかと」


 楼盾は維氏の宿老の子らしく、大陸の徳治と、北地の弱肉強食を合わせたような価値観を披瀝した。


「武成は人としては我が君に甘いが、臣としては誰よりも我が君に厳しいからな」

「まあ、それは私も思います」


 子狼と呉西明はしみじみと語り合っている。はじめのほうこそ険悪であったが、呉西明は子狼とそれなりには気脈が通うようになっていた。


「我ら粗野な北狄には大陸の道理は分かりませんが、我らが主君に求める武の代替が徳だと言われれば、その本質を解せずとも頷けるところはあります。盧どのほどの武辺を持つ人が誰かに仕えるのですから、武にしても徳にしても、相応の器量を求めるのはおかしな話ではありますまい」


 允綰はそう言ってから、喉に酒を流し込む。そしてそう言われると、盧武成の武勇を実際に見知っている呉西明と、陶族の猛将を斬ったという驍名を聞き知っている楼盾は納得して頷いた。

 盧武成としては抗論したい気持ちもあるのだが、そうするとさらに話がおかしなところに転がりそうなので、允綰の主張に無言の是を示した態で、それ以上は何も言わなかった。

 そして、盧武成の無二の友たる子狼は、


 ――傍目にはそう見えても、当人は胸中でいくつもの純心をぶつけて屈折させているのが、この武成という男なのだがな。


 そんなことを考えていた。

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