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春秋異聞  作者: ペンギンの下僕
南愁公路
152/167

ウーハオ・チーリン

 毒草の煙に身を燻されながら、呴衍鶡(こうえんかつ)はひたすらに、この悪辣な策を考えだした者を呪った。

 巍峨とした城市、堅牢な山砦、壮大たる長城。それらに付随する多様な防備などは恐れないし、卑怯だとも思わない。力で劣る石の国の民ならば当然の智慧だろう。

 だが、自然の毒に頼り、敵前に姿さえ見せぬ姑息を見ると、狡猾を極めたかのような愚図な性根がひたすらに怨めしい。呴衍鶡は、その策を立てた者の肉を百万遍刻んでもまだ足りぬほどの殺意を覚えた。

 その怒りが、呴衍鶡を支えている。

 その、曰く愚図で狡猾な立策者――姜子蘭の軍師たる子狼が用いた毒草とは、先に“呑躰術”の対策のために盧武成が薊国内でかき集めた断腸草である。

 その時は間に合わなかったが、いずれ何かの役に立つと思った子狼は此度の陣中にそれを持ち込んでいたのだ。

 断腸草は扱いによっては薬にもなるが、その毒性は強く、場合によっては触れるだけでも死に至るほどである。ましてそれを燃やした煙を吸ったならば、呼吸は困難になり、目眩や嘔吐を覚え、朦朧としたままに死んでしまうという。

 推定で語ったのは、子狼はこのことをあくまで書物の知識としてしか知らないからである。

 しかし現実は、書の知識が正しかったことを証明した。といっても、子狼はまだその成果を知らない。決してその罠の場に近寄ってはならないときつく厳命してあるからだ。少しでも煙を受ければ危険なのだから当然のことである。

 だがそのおかげで呴衍鶡らは奇襲とは無縁のまま、危地から遠のくことが出来た。

 煙の被害を受けず、呴衍鶡や兵の身を案じて、落ち延びる彼らのもとに兵が次第に集まりだす。だがその数は千にも満たなかった。多くの兵は呴衍鶡が死んだと思い、我先にと常山城から逃げ出してしまったのだ。

 実際、陣頭にいた呴衍鶡は真っ先に死んでいるはずだったのである。断腸草の毒とはそれほどまでに凄烈なのだ。目をやられ、意識が混濁の中にあろうとも、まだ生きているという一事が、呴衍鶡の非凡を物語っている。


「神皇、ひとまず川を目指しましょう」


 兵が三人がかりで呴衍鶡を担ぎ、そう声をかけた。その言葉もはっきりとは聞こえず、呴衍鶡はただ呻くばかりである。

 その最中、呴衍鶡は昔のことを思いだしていた。

 自分が神皇となった時のことである――。




 呴衍鶡は生まれたその日に殺されるはずであった。呴衍鶡は、時の神皇に災いをもたらすと、勲尭族の巫女が予言を下したからである。呴衍鶡の父は勲尭族の将であったが、予言とあっては逆らえず、生まれたばかりの我が子を殺す決意をした。

 だが母は夫に逆らい、呴衍鶡とともに山中に逃げたのである。

 そうして十五年の時が過ぎた。成長した呴衍鶡は、老衰し、山中で息絶えた母を看取ると、一人で勲尭族の野営へ向かった。そして、剣一本だけで千を越える兵を相手に暴れまわり、ついには神皇とその一族を殺してしまったのである。

 最初は奮戦していた勲尭族の兵らも、主君たる神皇が討たれたとあって、口々に、ルーペイ・ツーイーの名を口にして怯えていた。

 そんな最中、一人だけ、違う名を口にした者がいたのである。


「…………ウーハオ、チーリン」


 それが鞮武(ていぶ)であった。鞮武は、今まさに自分の父が討たれたというのに、呴衍鶡の前で膝をつき、主君に向けるような恭しさで首を垂れたのである。


「ルーペイ・ツーイーなら知っている。だが、お前が口にしたそれはなんだ?」


 拝跪を当然のものとして受け止めつつ、呴衍鶡は傲岸に振る舞った。


「古き予言です。大剣と勁弓を持ち、黄金の駿馬に跨って天を駆け、彷徨える北地の民を無窮の新地へ導く英雄――貴方こそ、その体現者に違いない」

「面白い。そいつは、ルーペイ・ツーイーよりも強いのか?」

「もちろんです。我らを北辺に追いやりったとされる多腕の怪物はいずれ人の身を以て再臨する。なれど、ルーペイ・ツーイーが再臨せし時代に同時に生まれ落ち、北地の民を導く英雄こそがウーハオ・チーリンなのです」


 ルーペイ・ツーイーは北地で広く人口に膾炙している。だが鞮武の語ったそれは、一部の身分が高い者や巫者の間にしか残っていない伝承であった。


「俺がそうだと言うのか?」

「はい。尋常ならざる胆力、人ならざる武勇。その両者を合わせた貴方ならば、間違いはありません。そして、そんな者を相手に争いを挑むのは天に唾するよりも愚かなことです」

「ならば、お前は今より俺に仕えろ」

「この身が、御身の覇業の佑けになるとあらば喜んで――」


 鞮武は即断し、佩いていた剣を前に差し出す。これは生殺の権利を主君に委ねることの証であり、勲尭族における臣従の誓いであった。

 だがその時、三人いる鞮武の兄たちがやってきた。父の仇に跪くとは何事かと、鞮武を叱責したのである。

 呴衍鶡はその様子を冷然とした眼で見ていた。


「おいお前。名は?」

「鞮武と申します」


 鞮武は、耳障りな兄たちの喧囂(けんごう)を無視して、呴衍鶡の問いに答える。


「鞮武よ。最初の主命だ。そやつらを殺せ」

「御意に――我が君」


 その命令は淡々とした声であったが、応じた鞮武はいっそう冷酷である。

 応じると共に手にした剣が鞘走ったかと思うと、剣光が閃き、三つの首を呴衍鶡の眼前に並べたのである。

 この日から鞮武は、呴衍鶡にとって最も信のおける将となった。




 ようやく小川に辿り着いた呴衍鶡らは、そこで顔を洗い、喉をすすぐことで落ち着いた。しかし此処に辿り着くことが出来ずに力尽きた者も多い。

 無数の敵も、火矢さえも恐れぬ呴衍鶡であるが、こうなると退くしかないと考えている。どう見回しても、継戦出来る状態ではなかった。

 だがその時、周囲から銅鼓の音が鳴り響く。

 その音を皮切りに、無数の兵が鬨の声を挙げて襲い掛かってきた。

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