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春秋異聞  作者: ペンギンの下僕
南愁公路
151/167

有中如無、無中如有

 暖春が近づいてきているというのに、その日の夕刻はいつにもまして肌寒い。

 芽吹きを見せた常山城の、まだひかえめな山影が黄昏に染め上げられるのを見おろしながら、呴衍鶡(こうえんかつ)は何故か血の(あか)を思い浮かべた。常であればそれさえも、


 ――いずれ維氏の連中の血が常山を穢す、その前触れであろう。


 と思えたのだが、今日の黄昏は今まで見たことがないほどに不吉なものを感じさせたのである。

 そんな矢先である。鞮武(ていぶ)討ち死にの報せが届いた。

 豪気で粗雑で、麾下の敗北には壮絶なる怒りに罵倒をまじえて吐き出す呴衍鶡であるが、此度に限っては、暫くの間、絶句した。乱戦の最中だというのに馬を止め、それがために勲尭族の足も止まり、呴衍鶡自身、流れ矢を左肩に受けて負傷してしまった。

 呴衍鶡はなおも斥候からの報告を聞いているが、どうやら鞮武が死んだことに間違いはないらしい、と確信すると、馬首を返した。


「反転する!! 鞮武の軍、五千を救いに行くぞ!!」


 鞮武の率いていた兵がどうなったかまでは定かではない。だが、鞮武という勇将が討たれたとあって、なおも軍としての統率を保てているとは思っていない。強き将の下で力戦敢闘する兵は、将が討たれてしまえば脆く崩れ去るという弱点がある。

 大陸の軍であっても、無論、将というのは軍の要である。しかし法と軍制によって管理された軍では軍中に序列があり、将が討たれたとしても兵はすぐに次位の将の指揮下に置かれるのだ。

 しかし勲尭族にはそういった軍中の秩序というものはない。どこまでも、多部族が呴衍鶡の強さの下で結束した――鷹に率いられた烏合の衆でしかないのである。ただしそれは、虎狼の群れをも撃滅する、無双の烏合の衆である。

 だが、鞮武が討たれたことでその兵力も半減した。

 呴衍鶡が一万の将兵の中で、心の底から頼みとしていていたのは鞮武ただ一人なのである。だからこそ鞮武が不敬を働こうとも、君臣の分を弁えず、砕けた物言いをするのも寛恕していたのだ。

 その鞮武が死んだとなって、呴衍鶡の中には二つの怒りがある。

 一つは、これだけの信を置いていたのに、さくりと死んでしまった鞮武への怒り。

 もう一つは、その鞮武を殺した敵への怒りだ。


 ――その者と、率いる軍を鏖殺せねば、この憤激は収まらない。


 眼前に迫った常山の牙城を諦めたのは、そういう理由である。策としても、総軍を二つに分けて攻めるからこそ有効であったが、鞮武とその五千が霧散したとなれば厳しい、という考えもあった。

 だがそれでも、鞮武の仇だけは討たなければ気が済まないのである。その敵が今どこにいるかを斥候に探らせたが――どうやら、斥候が殺されているようなのである。

 勲尭族の偵者も、隠密に長け、しかも騎兵の快足を以て山間を縫うように移動している。それでも確実に戻らぬ者が複数名いるというのは、やはり地の利が敵にあるが故であろうと、呴衍鶡は苛立ちつつも妙に納得してしまった。

 だが、戻った者もいる。であれば――戻らぬ偵者が向かった先、あるいは復命のために使うであろう経路から、敵が潜んでいるであろう場所を絞り込むことは出来る。呴衍鶡はただ強いだけでなく、こういった即妙の機智があった。


 ――敵は、東にいる。


 呴衍鶡はそう判断した。西を攻めていた鞮武が討たれたのであれば、その敵は西からやってくると考えるのが常である。しかし諸々を考えると、敵は山麓を迂回して逆方向からこちらを突こうとしている、というのが呴衍鶡の結論であった。

 呴衍鶡と、五千――相次ぐ激戦で数を減らし、実数は三千から四千というところであるが――は西へ向けて、暗色に侵されつつある空の下を駆けた。やがてその視線の先に、わずかばかりの炬火がちらつく。(まぐさ)を噛ませて嘶きを消しているようであるが、馬の息の音も漏れ出ていた。

 敵影を見つけたと確信した呴衍鶡は、怒号とともにその火をかき消さんと襲い掛かった。

 先陣を切る呴衍鶡が、炬火めがけて大剣を振り下ろす。肉を斬った感触はあったが、そこに違和感があった。そして、斬り落とした肉とともに落ちた炬火が地に落ちる。その火が――地に敷き詰められている草を燃やし、煙を起こした。

 夜の山中で燃える火が映し出したのは、そこにいるのが軍などではなく、馬の頭に炬火を括りつけただけの偽兵だったということである。しかしその詐術に腹を立てるゆとりもなく――呴衍鶡は、地面から立ち上る煙を吸って、全身が泥になって溶けていくような悶絶を覚えた。地には、燃やせば害悪な煙を発する毒草がそこかしこに撒かれていたのである。

 しかも、わずかな火であれば消せば済むが、松明を括りつけた馬は何十頭とおり、それらの馬もまた、煙毒で倒れたことで、火は一気に広がっていった。

 こうなると為すすべはなく、煙を吸った者は次から次へと落馬していく。兵がその毒に耐えても、馬のほうが耐えきれずに転げることもあった。

 この場においては、息を吸うだけで、鼻孔と口から入り込んで臓腑を引き裂く刃を招き入れることに他ならないのだと、将兵のすべてが本能で察した。

 つい数刻前までは無双の豪勇を誇った勲尭の兵は、今は口元を抑え、空気を吸い込むことを耐えながら、馬を捨てて山を下りるより他に術がなくなった。

 幸いにして、四千の兵であり、後陣にいるものは煙の被害を受けなかった。しかし、無傷だからといって迂闊には近づけないでいる。悪しき煙に燻された味方を救おうとしてその渦中に飛び込むなど、転落者を追って断崖に飛び込むに等しい行為であるからだ。

 草原の民として、こういった毒草の煙の害を受けた時には、清い水で洗う、という常識はある。しかしこの場では近くに流水もなく、手持ちの水だけではとても、毒草にやられた味方を助け出すには足りない。

 無事だった兵は、苦しむ味方を見捨てて、少しでも煙から遠ざかるより他になかった。

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