蛮軍狄覇
鞮武が盧武成に討たれたその頃。
常山城を東側から攻めていた呴衍鶡は、まさに破竹の勢いで進撃していた。
罠も奇襲も意に介さず、ただ愚直に斜面を駆けのぼっていくのである。剛腕を以て神皇となった呴衍鶡の武は凄まじく、強き族長に従う兵たちもまた、懼れというものを知らなかった。そして、そのような軍と相対すると、維氏の兵はどうしても身が竦み、持つ力を十全に発揮出来ぬままに殺されていくばかりである。
既に呴衍鶡とその兵は常山城の牙城の最後の守り、馬防策を一つ越えて二つ目の策を攻略している最中であった。
馬防柵とはその字の通り、井形の柵を横に並べて騎馬を防ぎ、狭間から矢を射る対騎馬の防備である。単純で、それ故に有効である備えを、しかし呴衍鶡は奇策なしに真っ向から打ち破った。
あり得ぬことであるが、まるで矢のほうが呴衍鶡を避けているように、その体には傷一つない。手にした大剣で柵を斬り潰し、こじ開けられた一穴からなだれ込んだ勲尭族の兵は瞬く間に馬防柵を守る兵を鏖殺した。
維氏には高地の有利があるのだが、そのようなものなど有って無きが如く、平地を駆けるように勲尭族は進んでいったのである。
だが、常山城の難所はここからである。
馬防柵を越えて、無数の丸い何かが飛来した。飛礫かと思われたそれは、しかしそれにしては遅く、勲尭族の体や地面に当たると乾いた音を立てて割れた。その中には黒ずんだ液体がはいっていて、周囲に異臭をまき散らす。
――油入りの陶器か。
呴衍鶡がそう悟った時には、まだ昼にならぬ蒼穹に赤い星群が並ぶ。火矢であった。
「恐れるな、進め!! 全身を焼かれても吶喊してくるとなれば、いずれその身に火が回るのに怯惰して、敵は火を使えぬぞ!!」
呴衍鶡の強引な激励に、しかし兵はその通りに進んだ。率いる兵の三分の一ほどは体が燃え盛っているが、それでも剣を強く握り、果敢に前に進んだのである。それどころか、自分の体を焼いている火を次なる馬防柵に移し、守りを燃やして主君のために道を拓いた。
山頂からそれを眺めている楼環は、空恐ろしい心地で、何をしても足を止めずに迫りくる敵を見下ろしていた。といって楼環に出来ることは、ただひたすらに、堅守することだけである。
ここまで楼環と、その率いる維氏の兵は善戦していたと言える。
夜明けから始まった戦いであるが、夕刻になっても常山城はまだ陥落していない。だが立ち昇る揚声が止む気配はない。楼環は夜戦を覚悟した。
まさに呴衍鶡は、夜を徹して次の朝日を見るまでに常山城を攻め落とす気概であった。
しかしこの戦場において呴衍鶡率いる勲尭族の他にも、夜戦を望む者たちがいたのである。
姜子蘭率いる夏羿族三千騎であった。
勲尭族が白代川を越えたとの報告を受け、姜子蘭は維氏の領にひそかに入った。勲尭族は無論のこと、楼環ら維氏にも気取られぬように、である。
これから維氏に助勢しようというのに、その守将たる楼環に何も言わぬというのは礼を失することのように姜子蘭は思った。
「いえ、我らは伏兵でございます。音もなく、影もなく、ひそやかに勲尭という怪物に迫る刃なれば、その存在を知る者は少ないほどよろしいのです」
「なるほど、そういうものか」
姜子蘭は頷いた。盧武成としては思うところがないではないが、ここまで、こと戦については、子狼の言が外れたことはないので口をつぐんでいる。呉西明に至っては、軍事については素人なので、なおさらであった。
子狼は、最初の数日は様子見に徹した。そして、いよいよ危ういという時になって盧武成と呉西明を将に立て、背後からの奇襲を命じたのである。牙城に迫られた勲尭族が、楼環さえ分からぬ理由で兵を返したのはこの奇襲のためであった。
だがこれは仕込みである。
「古来より、寡兵が衆に勝つには、将を討つことがもっとも有効だ。明日は間違いなく、少なくとも副将たる鞮武が出てくるだろうぜ。そして十中八九、神皇呴衍鶡も出陣し、総力を挙げて常山城を落としにかかるだろう」
常山城を守る楼環からすれば断崖に追い詰められたような内容を、子狼は嬉々として語る。その二名を前線に引きずり込むことこそが子狼の目的であるからだ。
「ならばなんだ? 俺がその二者の首を取ればいいのか?」
わざとらしく子狼のほうを見て、盧武成は眼を鋭くした。
「それが出来れば楽でよいが、この二名の武勇については俺も詳しくはない。強いということは知っているが、それがお前の武と比していかなるものかは分からない。だから策を出す。勝てそうならば勝負を挑めばよいが、五分と見れば、策に嵌めて確実に倒せ」
子狼は、盧武成が戦を重ねるたびに積み上げる驍名を聞くたびに、自らへ戒める気持ちを強くしていた。盧武成という将は、凡庸な軍師が少しの智恵を用いるだけで、たいていの敵を打ち負かせるほどに卓絶している。しかしそれでは、盧武成に比肩する武勇の敵には勝てないのだ。
優れた将を有効に使う。それは軍師として当然のことである。だが、その楽に慣れてしまえば、策士としての才幹が鈍る。
まして此度の敵は北地の守り手、樊の維少卿さえ恐れる北方の覇者、勲尭であり、いずれ姜子蘭が立ち向かわねばならぬのは、虞王朝を一度は滅ぼした西方の雄、顓なのである。策に溺れてはならぬが、軍略を己の中で常にめぐらせることを怠っては、いずれ足元を掬われるだろう。
「ああ、分かった。ならばその策とやらを言え」
これまで、数多の強者と戦って負け知らずの盧武成は、しかし自分の武勇を疑われたことに腹を立てることなどせず、子狼が立てた策についての説明を求めた。




