鞮武の矜持
後方から奇襲あり。その報せを聞いても、鞮武は兵の足を緩めさせることをしなかった。
先にも書いたが勲尭族の馬は維氏のそれと比べても駿馬が揃っている。速さで振り切れるならばそれでよく、その速さについてくる敵には、力を以て斃せばよいのだ。
鞮武は左手で手綱を握り乗馬を御しつつ、右手の得物を握る力を強くした。
鞮武が扱う武器は、六尺(一六二センチ)の鉄杖である。主君たる呴衍鶡は八尺四寸(一九九、八センチ)の大剣を木の枝のように軽々と扱う豪傑であるが、それに反して、副将たる鞮武の武器には飾り気も派手さもない。
しかし鞮武にしてみれば、駿馬の速さをもって鈍器をぶつければ人は容易く死ぬものであり、刃の鋭さは無用なのである。実際に鞮武はこれまで戦場において、殴り、馬上、あるいは車上から叩き落すという形で数多の敵を打ち倒してきた。
剣の技は、当てて、力を込めて、引いて斬るという技倆がいる。瞬き一つほどの間に幾つもの判断を求められる戦場においてそれは難しいことであり、鞮武が鉄杖という武器を選んだことは、術理から逃げたとも言える。
しかしそのようなことは、些細なことであった。
――戦場では、勝てばよい。生き残れればよい。
修練を積み、高い技能を有していても、純朴な力に打ち倒されることもある。鞮武は自分を凡夫と自覚しており、だからこそ、容易く敵を倒せるための武器を選んだのである。
鞮武は、力こそすべてであり、強者に首を垂れる者が多い勲尭族の中では奇妙な男であった。
強さに焦がれ、より強き者に心酔する気持ちは人一倍ある。しかし一方で、圧倒的な強さとは一握りの人間に与えられた天与の才であり、それを持たぬ者のために策や技能があるという思想を持っている。
疾駆する馬上で鉄杖を自在に操り敵に的中させるという鞮武の手腕も、敵からすれば十分に強大な武威である。しかし鞮武は、他者にそう称賛、あるいは恐怖されるたびに、むしろ自分の稚拙を恥じいるばかりであった。
さて、そんな思想の鞮武であるが、奇襲の報せを受けてから、その背に受ける叫声が近づいてきた。
来るならこいと、鞮武は意気込んでいる。しかしやがて、敵声は次第に遠のいていったのである。後方からの報せによると、襲撃してきた敵影は、特に敗勢に陥ったわけでもなく、急に踵を返して退いていったとのことであった。
分かったことと言えば、騎兵であるというくらいのことだが、騎兵など、維氏の兵であればなんら珍しいものではない。
わずかな奇妙さを覚えつつも、退いたのであれば気にする理由はない。再びの奇襲に備えさせつつも、鞮武の意識は山頂へと向かった。
だが、暫くするとまた、奇襲の報せがあった。しかしこれもまた、ある程度の攻撃をかけると退いていくのである。
――ふん。いかにも、弱者の使いそうな玩弄の術だ。
敵の思惑など鞮武には手に取るように分かる。こうして挑発を繰り返してこちらをいら立たせながら、足を止めるつもりであろう。
鞮武はさらに、自分が敵であればどうするか、と考える。
――こちらが反転したところで後背を狙い討つべく、さらに登ったところに強い敵を配置しておく。
後方の奇襲を振り切り、敵の策を真っ向から破るというのも悪くはない。だがここで鞮武は、騎兵そのものを殺すための策があることを警戒した。陥穽を掘っておくか、縄を足元に張り巡らせておくか。やりようはいくらでもあるのだ。
罠を承知で前に進むか。
それとも、敵の思惑に嵌まるのを承知で兵を反転させるか。
少し考えて鞮武が選んだのは――横に、西に走ることであった。
鞮武は策を用いることも、主君に進言することもしない。しかし、策士の考えというものは理解できる。その上で、それを如何にして剽悍なる兵で圧し潰すかを考えるのであった。主君たる呴衍鶡が共にあれば、何があろうとも前進以外のことを言わない。しかし、武において劣っている自覚がある鞮武は、力と兵の当てどころというものを常に考えている。
――今は、伏兵を振り切って牙城に迫ったほうがよい。
それが鞮武の考えであった。
兵糧があまりなく、寸刻を惜しむ気持ちもある。最速で常山城を陥とすことが先決であった。この勢いで迫れば、あるいは呴衍鶡よりも先に維氏の北端、その喉元に迫れるかもしれないという欲念もある。
だが、そんな副将としての功名心とは裏腹に、鞮武という一人の勲尭の民としては、
――だがまあ、あいつはそれでも、俺を山頂で待っているのだろうな。
という想いがある。願望でもあった。自分が首を垂れる男。偉大なる勲尭族の神皇はそうあれかしと、鞮武の赤心は望んでいるのである。
だが、鞮武がその答えを知ることはなかった。
不意に、鞮武の視界が揺れる。それが、馬が何かに足を取られ、体ごと大地に投げ出されたのだと気づいた時には――頭上から雨のような飛礫が降り注いできたのである。しかもそれがやたらと正確無比であり、兵の顔面や馬に的確に当てられて、鞮武の兵は混乱に陥った。
さらに西の方から喚声が響く。待ち構えていたように、数百の騎兵が鞮武の眼前にいた。陣頭に立つ赤馬に跨った男が右手をあげる。すると、石の雨はたちまちに止んだ。
その男は、夜の帳よりもさらに濃い黒鎧を身に着けている。鞮武を将と見て、手にした長柄の戟を構えて単騎で向かってきた。その背後から、ルーペイ・ツーイーという叫びが口々に響く。
「ルーペイ・ツーイー、だと!? ふん、そんなものがこの世にいるものか!!」
辛うじて飛礫を受けなかった鞮武は、麾下のうち、無傷な馬に乗る者と馬を代え、鉄杖を構えて吶喊していく。
多腕の怪物。大地を血で染め、一切の生者の姿が見えなくなるまで戦いを止めぬ無類の強者。そんなものが実際にいたとは思えない。もし、人の身でその神話を体現できる武を持つ者がいたとしても、鞮武は陶族や夏羿族の民のように、その名を畏れることはなかった。
――俺が唯一、頭を下げると誓った王は、いずれ多腕の怪物をねじ伏せる戦士である!!
そもそも、目の前のこの男が本当に神話の怪物に比類する強さかどうかさえ怪しい。北地の民がルーペイ・ツーイーの名を畏れるのを知った維氏がその名を利用している、という可能性もある。
――そんなまがい物など、俺で十分だ。我が君が出るまでもない。
自らの武について呴衍鶡には勝てぬと思っている鞮武だが、それはつまり――勲尭族において鞮武こそが呴衍鶡に次ぐ実力者である、という自負のあらわれでもある。
二人の体が馬上で交差した。
決着は、一撃でついた。すれ違ったと同時、鞮武は胸を深く斬られ、血を噴き出して馬上からゆらりと落ちたのである。
「得物と馬の差だったな。もし貴殿が愛馬に跨り、より軽い木の杖を手にしていれば、死んでいたのは俺だっただろう」
馬の足を止めると、黒鎧の将――盧武成はそう言った。しかし、すでにこと切れた鞮武に、その言葉が届くことはなかった。




