呴衍鶡と鞮武
常山城に怒涛の攻めを行っていた勲尭族は、急にその攻めの手を弱めた。
その理由について楼環は探らせたが、よく分からなかった。しかし実は、勲尭族の将兵も正しいところは分かっていなかったのである。
何が起きたかは理解している。彼らは、背後を奇襲されたのだ。ただし、その兵の正体が判然としないのである。
維氏の兵でないことは確かである。勲尭族は常山城における維氏の兵の動きについて常に細心の注意を払っていた。その上で、慮外のところから攻められたのである。
「どうなっている、今日の失態はなんだ!!」
その日の夜。勲尭族の長――神皇、呴衍鶡は、穹盧の中で諸将に怒号を飛ばしていた。呴衍鶡は、七尺(一八九センチ)を越える巨躯であり、鳥のように鋭いまなじりと、野獣もかくやという鋭く立ち並んだ歯を持った、まさに北地の騎馬の民の王に相応しい、野生溢れる容姿をしている。
そして、その見た目の通りに強く、弓を扱えば楯三枚を一矢で破り、大剣を振るえば一薙ぎで首が十は飛ぶという剛勇を誇る。まさにその圧倒的な力を以て勲尭族の神皇の座を奪略した人であった。
今年で四十になり、武人としても脂がのった齢である。
そんな族長の双眸から向けられる睥睨は、臣下の肝胆を縮こまらせた。群臣の萎縮を見かねて、副将たる鞮武という男が諫める。
「将に過失はない。負けたからといって無駄に当たり散らすな、我が君」
鞮武は、臣下らしからぬ砕けた物言いで呴衍鶡を宥める。あごひげを蓄えた中背のこの男は、齢は呴衍鶡と大して変わらない。先代の神皇の子であり、呴衍鶡は父の仇ということになる。しかし、呴衍鶡の信任厚い人物であった。
「ならばどうするのだ、鞮武?」
「敵はあらかじめ、山の外にも兵を伏せていたのだろう。それだけ分かれば、後は力で潰すのみだ」
声は穏やかだが、そこから放たれたのは策などではなかった。鞮武は、目に見えぬ敵は恐ろしいが、目に見える敵であれば恐るるに足らぬ、と言っているのである。
敵に当たれば必ず勝つこと。それこそが勲尭族の、そして、呴衍鶡の強さである。
白代川を越えてから今日まで、呴衍鶡は鞮武の進言を受けて、城攻めには関わってこなかった。一つには、諸将に手柄を立てさせようという族全体の政治的な配慮であるが、もう一つは此度のような、死角からの伏兵がいないかを探るためである。
案の定、敵は常山城の外にもいた。ならば、それごと巻き潰せばよい。
呴衍鶡と鞮武。この君臣に共通する思想として、策とは所詮、弱者の窮地の弥縫に過ぎぬ、というものがある。策を頼む者とは、強くなるための努力を感けた者でしかないのだ
『百万の蟻がいかなる策を講じようと、狼に勝てはしない』
かつて鞮武はそう言い、呴衍鶡は満足そうに頷いた。
「そうだな。我らと同じ騎馬の民といえど、所詮は石畳の国の軟弱者に尾を振る駄馬にすぎぬ」
「その通りだ」
「ならば、明朝、改めて攻めるぞ。兵の半分はお前にくれてやる。存分に暴れてこい」
呴衍鶡の言葉に鞮武は、わかった、と、およそ臣下が主命を拝するとは思えぬぶっきらぼうな言葉で応じた。
勲尭族は敢えて夜襲をしなかった。
宵闇は時に、敵にも利をもたらす。敵に備えがあれば翻弄される恐れもあるからだ。
だが、白日の下で争うのであれば、維氏がどのような奇策に走ろうとも勝てる。呴衍鶡と鞮武はそう考えているのだ。
旭日が常山の東を白ませるのと同時、勲尭族は腹の底から吶喊を響かせて南進した。攻め手は二手に分かれており、一万の兵のうち、呴衍鶡は昨夜の言質の通りに鞮武に五千を与えて西側から攻めさせ、自らは東から攻めることとなった。
まず進む先には逆茂木が迎え撃つ。馬腹を狙うように地の底から這いだした無数の槍を、しかし勲尭族の兵は難なく越えていく。同時に、頭上からは数多の弓勢が弦音を絶え間なく鳴らして矢の雨を降らせていた。
逆茂木で馬足が緩んだところを射抜く策なのだが、しかし地面に植え込まれた突起など勲尭族の騎馬は物ともせず、稲妻のような速さで駆け上がってくる。弓兵の近くにまで瞬く間に迫られ、維氏の兵は撤退を余儀なくされた。
逆茂木を越えれば、あとは守将たる楼環がいる牙城までひたすらに山岳である。人馬が進むための舗装された道などはないが、しかし、逆茂木があっても意に介さずに進む勲尭族の兵に、山道などは足止めにさえならない。
策というものを好まない呴衍鶡と鞮武であるが、一つだけ方針を決めていた。
それは、兵を分けぬことである。
『我らが狼とすれば、奴らは犬のようなものだ。だが、犬が五匹いれば狼の喉笛に牙が届くこともありうる。それに、駄犬でも寝込みを襲えば狼に勝つこともあるだろう』
鞮武が副将としてした、ただ一つの進言である。数で劣ることがなく、かつ油断をしないこと。その二つを戒めとして抱いていれば負けないと、鞮武は信じているのである。それは決して盲信などではなく、かつて、その二つさえ徹底していれば負けたことはないという実績に裏打ちされた確信であった。
鞮武もまた、自信と警戒を備えつつ、五千の兵を率いて常山城を駆けのぼっている。
不意に、後方が騒がしくなった。奇襲だ、と伝令が報せをもたらす。
「来たか。いいだろう、その浅知恵ごとねじ伏せてやる!!」
鞮武は兵を鼓舞するように、壮大な自信を吐いた。




